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オシムが祖国と教え子たちにもたらしたもの。50年来の友人記者が激動の人生を振り返る (4ページ目)

  • ズドラフコ・レイチ●文 text by Zdravko Reic
  • 利根川 晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

市庁舎に日本代表監督時代の写真

 最近のイビチャは、1年の大半をオーストリアのグラーツの家で過ごし、夏だけサラエボに戻ってくるという生活を続けてきた。グラーツは彼が日本に行く前に長く監督を務めていた町である。特にコロナが流行してからは、ほとんど故郷には帰ってきていなかった。サラエボの自宅は4階にあり、エレベーターがついていない。足の不自由なイビチャの生活には不向きだった。

 彼はボスニア・ヘルツェゴビナで最も尊敬されている人物だった。サラエボにはふたつのサッカーチームがある。サラエボとイビチャがプレーし、監督もしたジェリェズニチャルだ。互いのライバル心はかなり強いが、どんなに激しいサラエボのサポーターもイビチャをリスペクトしていた。

 訃報を受け、ジェリェズニチャルのホームスタジアムの時計は19時41分を指して止まった。1941年はオシムの生まれた年である。試合時間が示されるデジタル表示は彼の年齢81で止めらた。サラエボの市庁舎には毎晩オシムのさまざまなイメージ写真がプロジェクションマッピングで映し出されている。もちろん日本代表監督時代の姿もだ。

 グラーツとサラエボの彼の家の前では、大勢の人々が彼を惜しみ、マフラーや花を掲げている。サラエボの彼の家の前の道は、すでにイビチャ・オシム通りと呼ばれている。

 イビチャ・オシムは選手であり、指導者であり、哲学者でもあった。サッカーのことを話させたら尽きることがないのは、選手時代、練習が終わってもいつまでもボールを蹴り続けていたのと同じだ。今、彼は久しぶりに大好きなサッカーができているのだろうか。好きなだけサッカーを語っているだろうか。

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