岡野雅行が振り返る「地獄の日々だった」高校時代 「それでも逃げなかったことが今につながっている」 (2ページ目)
その後、母校(現・立正大学淞南高校)は選手権に何度も出場するようになって、(2010年度大会ではベスト4に進出して)国立にも行っています。
初出場のときは、めっちゃうれしかったですね。だって、あのとき僕、エナジードリンクのCMに出ていたので、差し入れで持っていきましたから。僕が初めて選手権の試合を見に行ったときには、スタンドの応援団が「岡野先輩、ありがとう!」なんてコールしてくれてね。もう本当に感動しました。
だけど、僕が見に行くと、だいたい負けるんです、うちの高校。ベスト4のときも、僕が見に行かなかったから、国立まで行けたんですよ、きっと。
そのときも僕が国立へ応援に行ったら、準決勝で負けちゃいましたからね。「やっぱ、オレが行ったら負けるんだ......」って、かなりヘコみましたね。
だって、その大会で優勝した滝川第二高校を相手に、内容的には圧倒していて、絶対勝てる試合だったんですよ。相手GKと1対1になってGKも抜いたのに、無人のゴールへのシュートを外しちゃったりして。結局、0-0のままPK戦になって、そこで負けてしまいました。
あれ以来、もう母校の試合は見に行かないと誓っています。
高校時代は、今振り返っても地獄のような日々でした。それでも、やっぱりあそこで逃げなかったことが、今につながっているのかなとは思います。
たぶん、あのとき逃げていたら、今はないですね。サッカーもやっていなかったかもしれないし。
卒業式では、当時すごく怖かった先生が大泣きして、「おまえら、よく耐えた! おまえらは、これで生きていけ!」って言ってくれたのを思い出します。
卒業したのに「おめでとう」じゃないのかよ、って感じですけど、でも、言っていることはよくわかります。あそこで耐えることができたから、世の中に出ても何も怖くないんだろうなって思いますから。
岡野雅行(おかの・まさゆき)
1972年7月25日生まれ。神奈川県出身。松江日大高を卒業後、日本大学に進学。1994年、大学を中退し浦和レッズ入り。快速FWとして1年目から活躍。1995年には日本代表に選出され、1997年のW杯予選アジア第3代表決定戦ではVゴールを決めて日本を初のW杯出場に導いた。1998年フランスW杯では第2戦のクロアチア戦で途中出場。その後も浦和で奮闘し、2001年にヴィッセル神戸に期限付き移籍。2002年に完全移籍したあと、2004年には完全移籍で浦和に復帰。2009年2月には香港リーグの天水圍飛馬に移籍し、同年8月には当時JFLのガイナーレ鳥取に移籍した。2013シーズンを最後に現役引退。以降、同クラブのゼネラルマネジャー、代表取締役GMなどを歴任し、2024年12月に南葛SC事業本部長に就任。2025年1月には古巣・浦和のブランドアンバサダーにも就任した。
フォトギャラリーを見る
2 / 2