「鹿島にすべてを捧げる」優勝に向けて奔走するポポヴィッチ監督の半生とは (3ページ目)

  • 木村元彦●取材・文 text by Yukihiko Kimura

 ペーチの監督やコーチはアルバニア人であったが、セルビア人であろうが、マケドニア人であろうが、ロマの選手であろうが、民族を分け隔てすることなく指導にあたってくれていた。またそれが当時のユーゴスラビアであった。「ペーチの監督からは、本当にいろんなものを学ばせてもらった。ポリバレントな選手になれるようにからはじまって、いろんなポジションを試された。私がプレーする上で一番好きだったのはリベロだったが、見ていたコーチたちは、ボランチに特性があると言ってくれた。複数のポジションを経験したことは選手のみならず、自分が監督になってからも活きてきた」

 ここで知念のボランチへのコンバートについて言葉を繋いだ。「私は(柴崎)岳や知念のようなすばらしい技術を持った選手ではなかった。だが、ポランチはチームにおける心臓であるということを身をもって知っていた。言葉で説明するのは難しいけれど、このポジションに適性があるかどうかは、プレーを観察すると分かるのです。知念は戦術的な理解力、そして駆け引きの達者さが分かりました。アグレッシブさがあってデュエルの強さも段違いだった。練習でも相手との距離をただ詰めるだけではなく、ボールを奪いきるというのを意識してやっていた。彼は前線の守備でも寄せてコースを切るだけでよしとせずにマイボールを狙っていた。ただ知念のコンバートがうまくいった要因は、私のアイデア以上に彼が私の言葉を受け止め、迷わず前向きに努力してくれたことだ。彼はもう7年プロとして活動していたから、普通はボランチをやれと言われれば、腹を立てるだろう(笑)」。ポポのボランチへの執着は過去の仕事からも見て取れる。大分トリニータ時代には家長昭博を、東京で指揮をとったときは長谷川アーリアジャスールをこのポジションに配置転換させている。アーリアはこの時、当時の日本代表監督のアルベルト・ザッケローニに初代表に呼ばれている。「コンバートは私から選手へのリスペクト。決められたポジションしかできないと限界を決めてしまうのは失礼だと考えているからです」。

 ポポが在籍していた頃、ブドゥチノスト・ペーチはユーゴリーグの3部に属し、毎年昇格争いをしていた。当時のユーゴは28歳以下の選手は海外移籍を認められていなかったので国内リーグのレベルが驚くほど高く、20歳、21歳の選手が試合に出るのは並大抵のことではなかったが、やがて先発の座を確保した。「あの頃のユーゴリーグは間違いなく世界でもトップ5には入るリーグだった」。後に90年ワールドカップイタリア大会で活躍する若手も頭角を現していた。

 2歳年上のドラガン・ストイコヴィッチはレッドスター・ベオグラード(ツルヴェナ・ズヴェズダ)、2歳年下のロベルト・プロシネチキはディナモ・ザグレブですでに才能を周囲に認めさせていた。

 成人したポポは義務付けられていた兵役を首都ベオグラードで終えると、この都市のふたつのビッグクラブから、同時にオファーをもらった。すなわち、レッドスターとパルチザンだった。

つづく

著者プロフィール

  • 木村元彦

    木村元彦 (きむら・ゆきひこ)

    ジャーナリスト。ノンフィクションライター。愛知県出身。アジア、東欧などの民族問題を中心に取材・執筆活動を展開。『オシムの言葉』(集英社)は2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞し、40万部のベストセラーになった。ほかに『争うは本意ならねど』(集英社)、『徳は孤ならず』(小学館)など著書多数。ランコ・ポポヴィッチの半生を描いた『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)が2023年1月26日に刊行された。

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