「鹿島にすべてを捧げる」優勝に向けて奔走するポポヴィッチ監督の半生とは (2ページ目)

  • 木村元彦●取材・文 text by Yukihiko Kimura

この記事に関連する写真を見る ポポが生まれたのは旧ユーゴスラビアのセルビア共和国にあるコソボ自治州(当時)。今でこそ、ユーゴについては、隣人同士が殺し合いをさせられた紛争のイメージがついて回るが、崩壊する前のユーゴは冷戦時代に米国、ソ連どちらの陣営にも属さない中立非同盟主義諸国のリーダーであり、多民族が共存する国家として国連などの国際機関に大きな存在感を見せつけていた。元国連事務次長の明石康氏は「1960年代を思い起こすと、ユーゴ大使が(国際平和を提唱する)国連主義を体現する者として本部の廊下を肩で風を切って歩いていた」という。ポポヴィッチの生まれ育ったコソボは、そのユーゴの中でも特殊な地域で、人口の大多数がアルバニア人で構成されており、セルビア人は少数派であった。自治州というのは、このアルバニア人たちに対してアルバニア語の民族教育などの自治権が公的に担保されたもので、初代大統領チトーの提唱する「友愛と統一」の精神に基づいたものであった。

 ポポは10歳から、本格的にサッカーを始めた。父の弟がサッカー選手で、ボスニア共和国にあるチーム、スロボダン・トゥズラでプレーしていたことも影響していた。入団を志したクラブは、家の近くにあったブドゥチノスト・ペーチ。ペーチはコソボ西部の町で、14世紀からセルビア正教会の総主教座が置かれており、セルビア共和国の学生たちがルーツの拠り所として修学旅行で訪問するような地域で、いわばセルビア人にとっての宗教的聖地であった。セルビア人の聖地でありながら、居住者はアルバニア人が多数派。その背景を反映するようにブドゥチノスト・ペーチも両民族の指導者と選手で構成されていた。ポポは両親から、「学業をおろそかにしないなら」という条件でクラブへの入団が許されたが、チームでは一番身体が小さかった。当時のユーゴリーグのクラブは世代的にU-15、U-18、トップと三つのカテゴリーしかなく、10歳で入団してもその体格差は埋めがたく、接触プレーではよく吹っ飛ばされた。ポポは今、こう振り返る。「カテゴリーが細かく分かれていなかったことで、年上とやれたことはよかったと思う。自分があきらめてしまったらおしまいだ。そのメンタルを学ぶことができた」

 あと一年でU-15のレギュラーを担えるという14歳になった年だった。最愛の父親、モミルが肺がんで亡くなった。家族のために労を惜しまず働く父で、質素な暮らしながら、多くの愛情を注いでくれた。ポポが自発的に薪割りなどの家事を手伝うと、欲しがっていたウサギを黙って買って来てくれるような父だった。妹と弟はまだ幼く、大黒柱を失ったことで、一家の生活は長男であるポポの双肩にかかって来た。将来は叔父(この時期には順調にトルコリーグのアンタルヤに移籍していた)のようなプロサッカー選手になるしかないという決意が、さらにここで固まった。

 最初のポジションはFWだったが、ある日紅白戦でリベロをやれと言われて後ろに回った。これがはまった。自分でも思いがけず、いいプレーができた。この時、初めてコーチに褒められた。「お前のおじさんもいい選手だったが、お前もできるじゃないか、と言われたのです。そのときの嬉しさといったら。もう40年以上前の出来事ですが、どこだったか、どんな天気だったが、どんな匂いがしていたか、今でも私はその褒められたシーンを昨日のことのように覚えています」。育成世代において指導者の言葉がどれほど重要であるか、身に染みた瞬間であった。

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