助っ人Jリーガー・あの人は今〜1994年の得点王「オッツェ」に会いにブレーメンまで行ってきた
あの人は今〜「オッツェ」インタビュー前編
フランク・オルデネビッツ(ドイツ/元ジェフユナイテッド市原)
往年のサッカーファンにとっては、フランク・オルデネビッツ──愛称「オッツェ」の名前は懐かしく響くのではないだろうか。
1993年に開幕したJリーグの初年度、セカンドシーズンからジェフユナイテッド市原でプレー。1994シーズンには30ゴールを挙げて得点王にも輝いた。わずか1シーズン半でドイツに帰国するも、1996年には再び来日してブランメル仙台(旧JFL)で1シーズンプレーした。
日本でのプレーは合計2シーズン半。ただ、短い時間ながら日本との縁を得たことから、現在はブンデスリーガのヴェルダー・ブレーメンで日本(とスカンジナビア)を担当するスカウトとして活躍している。
元ジェフ市原のオッツェは59歳になっていた photo by Minegishi Shinjiこの記事に関連する写真を見る ジェフに加入する直前、オッツェはケルンでプレーしていた。そのケルン時代のチームメイトで、仲のよかったのが、愛称「リティ」ことピエール・リトバルスキーだ。ジェフでプレーしていたリトバルスキーから声がかかったことで、オッツェは日本行きを決めた。
「ある日、リティから電話がかかってきて『日本に一緒に来ないか?』って言われたんです。あの1本の電話から始まりました。
そして、僕は『すぐに行こう』と思いました。というのも、僕自身のキャリアは終盤にさしかかっていて、当時のケルンの監督とうまくいってなかった。なので、電話からわずか数日で日本に行くことを決めたんです」
当時28歳だったオッツェにとって、キャリアが終わる前に日本でプレーするという経験は、願ってもないチャンスだった。
日本行きを後押しした要素は、ふたつあった。ひとつは、誘いをかけてきたリティの存在。
「日本に行くことは、もちろん僕にとってはちょっとした冒険ではありましたよ。でも、リティが先に行っていたので、いろいろ話を聞いて問題はなさそうでした。妻と当時3歳だった息子と、3人で日本行きを決断しました」
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著者プロフィール
了戒美子 (りょうかい・よしこ)
1975年生まれ、埼玉県出身。2001年サッカー取材を開始し、サッカーW杯は南アフリカ大会から、夏季五輪は北京大会から現地取材。現在はドイツを拠点に、日本人選手を中心に欧州サッカーを取材中。著書『内田篤人 悲痛と希望の3144日』(講談社)。