「遠藤保仁のベストイレブン最多12回受賞の次に多い選手は」など、Jリーグ30周年を記念してクイズを出題 (2ページ目)
【解答編】
A11:大久保嘉人
大久保には合計104枚のイエローカードが出されています。100枚以上という大記録を持つのは大久保と小笠原満男の2人だけです。しかも、大久保は退場回数でもストイコビッチに次いで2番目の12回を記録しています。警告数でも退場数でも当然のことながら守備的MFやDFが名を連ねているなかで、アタッカーとして最多記録を持つピクシーと大久保はまさに"別格"の存在でした。
A12:Aの12番
1993年当時は先発選手が1番から11番、控え選手(当時は5人)が12番から16番を着けていた。JSL時代は固定背番号制だったが、プロ化と同時にヨーロッパの各国リーグに倣ってポジション別背番号を採用したからだ。GKが1番、ライトバックが2番......CFが9番......左ウィングが11番である。ところが、商業化の進行とともに1990年代に入るとヨーロッパでは固定背番号制が採用され、Jリーグでも1997年には固定背番号制に変更になった。その結果、エース番号の10番以外に、中村憲剛の14番、セレッソ大阪の8番など特別の番号が生まれた。
A13:7人
ジウマール(セレッソ大阪)、ジョルジーニョ、レオナルド、ベベット(ともに鹿島アントラーズ)、ドゥンガ(ジュビロ磐田)、ジーニョ(横浜フリューゲルス)、ミューレル(柏レイソル)の7人がJリーグにやって来ました。欧州クラブの財政力が急拡大するのは2000年代以降のことでした。つまり、Jリーグが開幕した1990年代前半頃は、日本のクラブには世界第2の経済大国の大企業がついており、欧州クラブとの間に財政面での大きな差はなかったのです。だからこそ、ブラジルやアルゼンチンの代表クラスがJリーグで何人もプレーしていたのです。
A14:サルバトーレ・スキラッチ(56点)
1990年イタリアW杯で6ゴールを決めて得点王となったシチリア島出身の熱血ストライカー。1994年4月にインテルから磐田に引き抜かれ、翌1995年には31ゴールを決めて得点王争いでトップを走っていましたが、リーグ終盤で負傷離脱してしまい、福田正博(浦和)に逆転されました。W杯得点王としてはほかにもガリー・リネカー(イングランド)、フリスト・ストイチコフ(ブルガリア)、ダビド・ビジャ(スペイン)、ディエゴ・フォルラン(ウルグアイ)がJリーグでプレーしています。
A15:盧廷潤(ノ・ジョンユン)
高麗大学時代に韓国代表入りし、将来を嘱望されていた盧廷潤。Kリーグからの誘いを断ってサンフレッチェ広島入りしたことで韓国社会から批判され、1993年のアメリカW杯最終予選で韓国が日本に敗れた時には「スパイ呼ばわり」もされました。それでも、W杯には1994年、1998年フランスの2大会に韓国代表として参加しています。MFとしての能力とともに気さくな人柄で親しまれ、その後多くの韓国人選手がJリーグで活躍するきっかけを作りました。
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