ジーコともプレーしたレジェンド。大物ブラジル代表が日産に加わるまで (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

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 オスカーはほぼ決定的というピンチを防ぐことでも有名だった。ジーコは彼についてこう言っていた。

「オスカーが後ろに控えていたからこそ、我々は落ち着いてプレーができた。彼が安心を与えてくれたからこそ、自分のすべきことに専念できた」

 またこの大会のスコットランド戦で、オスカーはゴールも決めている。ヘッドでのゴラッソだった。

 1986年メキシコ大会では、オスカーの存在はより重要になっていた。当時セレソンを率いていた名将テレ・サンターナに、「私のチームはオスカーとそのほか10人だ」とまで言わしめている。

 オスカーが生をうけたのはミナス・ジェライス州のごく普通の家庭だった。父はタクシー運転手で、母は家政婦。敬虔なクリスチャンの家庭だったとも聞く。

 1972年にポンチ・プレッタというサンパウロ州のビッグ4に次ぐレベルのチームでキャリアをスタートさせ、16歳でトップチームデビュー、17歳でレギュラーの座を勝ちとった。コリンチャンスと戦ったサンパウロ州リーグ決勝では、チームは敗れたものの、オスカーは記者によるMVPに選ばれた。ポンチ・プレッタでは、今でもクラブの3本の指に入るレジェンドと言われている。

 このリーグ戦の決勝の直後に、78年のアルゼンチンW杯を戦う代表に呼ばれる。W杯で優勝することはできなかったが、大会で最も優れたディフェンダーのひとりと言われた。

 大会後、当時、アメリカで最も資金力があるチームだったニューヨーク・コスモスが、「より強いチームになるためには強力なディフェンダーが欠かせない」と、彼にオファーをしてきた。オスカーの名前をチームに伝えたのは他でもないペレである。

 ペレはニューヨーク・コスモスで3シーズンプレーし、1977年末に引退していたが、大会直後に「オスカーを獲得しろ」という指示をコスモスに飛ばした。こうしてオスカーは1シーズン、約8カ月間、アメリカでプレーをした。しかし北米チャンピオンになった後、オスカーはやはりサッカーの中心地でプレーすることを望み、代表にも戻りたいと考えた。そこで彼が選んだチームがサンパウロだった。

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