無名で来日→まさかのブレイク。Jリーグから大出世した助っ人たち (2ページ目)

  • 原山裕平●文 text by Harayama Yuhei
  • photo by AFLO

 1995年からはセレソンにも名を連ね、1999年のコパ・アメリカの優勝に貢献。Jリーグの試合にも出られなかった選手が世界的な名手に成長を遂げるとは、これ以上ない出世物語だろう。

 同じブラジル人選手では、フッキの存在も忘れてはならない。

 来日したのは18歳だった2005年。獲得したのは川崎フロンターレである。もっとも、川崎では4人目の外国籍選手の扱いで、出場機会は限られた。

 ブレイクを遂げたのは、当時J2のコンサドーレ札幌にレンタル移籍した2006年。強烈な左足を武器にゴールを量産し、リーグ2位の25ゴールをマークした。さらに東京Vにローンで出た2007年は37ゴールで得点王を獲得するとともに、チームのJ1昇格の立役者となった。

 ともにJ2とはいえ、2シーズンで62得点。フッキは圧巻のパフォーマンスを見せつけた。

 翌年に川崎に復帰するも、2試合出場しただけですぐさま東京Vに再加入。11試合で7得点とJ1でも驚異的なペースでゴールを量産したが、夏にポルトへと移籍した。

◆「42歳以上のJリーガー6人の今。まだまだユニフォームは脱がない」はこちら>>

 超人的なフィジカルを備え、左足から放たれるシュートは驚愕の弾道でネットに突き刺さった。そのパワフルなプレーはJリーグレベルを超えていたが、一方でレフェリングに文句をつけ警告を受けることも多く、試合後に「Jリーグ、ムリ」とカメラに向かって不満を爆発させることもあった。

 その振る舞いから悪童のイメージがついたものの、フッキが欧州に渡ったあとに東京Vは大きく低迷し、1年でJ2に降格したことからも、その影響力は絶大だった。

 Jリーグの枠に収まり切らなかった男は欧州でもその力を見せつけ、2009年にブラジル代表に選出。母国で開かれた2014年のワールドカップにも出場している。

 このふたりとも劣らないシンデレラストーリーを歩んだのは、京都パープルサンガでプレーしたパク・チソンだろう。

2 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る