「今年こそ」。大久保嘉人は
36歳になってもサッカー小僧だ

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei
  • photo by (c)JUBILO IWATA

 彼とじっくり話すのは、実に14年ぶりだった。

 14年前、当時サッカー専門誌の駆け出しの記者だった筆者は、セレッソ大阪の担当として、売り出し中の大久保嘉人を追いかけていた。

 初めてインタビューをしたのは2003年。前年にセレッソ大阪のJ1昇格の立役者となった21歳の若きエースは、アテネ五輪を目指すチームでも主軸を担い、これからの日本サッカー界を背負って立つ人物として注目されていた。

昨季途中に移籍したジュビロ磐田では3得点に終わった大久保嘉人昨季途中に移籍したジュビロ磐田では3得点に終わった大久保嘉人 野性味あふれるプレースタイルで相手ゴールを襲い、年上の選手に対してもひるむことなく向かっていく。時に感情をコントロールできず、悪態をついて赤い紙を掲げられてしまうこともあった。歯に衣を着せぬ物言いも、特徴のひとつだろう。

 そんな彼に対するイメージは、悪童だった。生意気な態度で、人を寄せつけない雰囲気を醸し出し、どこか孤高の存在だった6歳年下の大久保に対して、筆者は畏怖の念を抱いていた。

 もっとも、注目が集まれば集まるほど、大久保を取材する機会は増えた。2003年には代表入りを果たし、2004年にはアテネ五輪に出場。そして2005年にはスペインのマジョルカに旅立つこととなった。

 移籍したばかりの大久保を、スペインまで追いかけたこともある。その時、自宅に招かれて行なったインタビューが、結局、大久保との最後の接点となった。翌年、筆者はC大阪担当を離れ、一方の大久保は海外挑戦に終止符を打ち、C大阪に復帰する。

 2007年にはヴィッセル神戸に移籍し、2009年に再び海外挑戦を決断したが、志半ばで神戸に復帰。2013年に移籍した川崎フロンターレでは3年連続得点王の偉業を成し遂げ、その後、FC東京、川崎、そしてジュビロ磐田と渡り歩く。

 2度のワールドカップにも出場した大久保のサッカー人生は、まさに波乱万丈だったが、筆者は彼とは疎遠のまま、そのキャリアを傍観者のように見守るだけだった。

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