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「メキシコ五輪得点王」の釜本邦茂を知らずに来日したセルジオ越後は「実際に対戦して、すぐに納得したよ」「ペレも認めていた」 (2ページ目)

  • 渡辺達也●構成 text by Watanabe Tatsuya

【海外のリーグでプレーする姿を見たかった】

 僕も長く日本のサッカーを見ているけど、釜本さんと同じかそれに近いレベルの、いわゆる本格派ストライカーはまだいないね。似たタイプの選手を挙げるなら、ゴン中山(雅史)かな。テクニックも大事だけど、とにかくペナルティエリア内での強さと決定力の高さという点で共通している。

 もちろん、昔といまとでは、サッカー自体が大きく変わっていて、FWに求められるプレーや能力も異なる。フィジカルもスキルも大きく進化している。だから、釜本さんが現代のサッカーで同じような活躍ができるかどうかはわからないし、また、いまの日本人FWがダメだというつもりもない。ただ、それでもやはり「日本サッカー史上最高のストライカーは誰か?」と聞かれたら、僕は釜本さんと即答する。

 "たられば"を言うなら、釜本さんが海外リーグやワールドカップの舞台でプレーする姿を見たかった。メキシコ五輪後には西ドイツ(当時)のブンデスリーガ行きの話があったけど、病気の影響で流れてしまった。

 当時、西ドイツでは釜本さんとタイプの似ているゲルト・ミュラーが大活躍していたから、釜本さんもよいクロスさえくれば、西ドイツでも活躍できたと思う。そして、それを見た日本サッカー界はもっと早く世界に目を向けるようになっていたかもしれない。そう考えると、もったいなかった。

 1984年に国立競技場で行なわれた釜本さんの引退試合に、わざわざペレとヴォルフガング・オベラートが来日したのは有名だ。また、1977年の「ペレ・サヨナラゲーム・イン・ジャパン」には釜本さんが参加している。

 実はその二度とも、僕はペレの通訳を務めているんだ。ペレと釜本さんは言葉も通じないし、そもそも接点も少なかったけど、ペレが釜本さんに親しみや尊敬の気持ちを持っていたのは間違いないと思う。以前よく試合を行なっていた「世界選抜チーム」に、アジアを代表する選手として釜本さんが何度か参加していたので、存在を知っていたそうだ。要するに「アジア最高の選手」と認めていた。

 釜本さんは亡くなる前のここ数年、体の具合がよくなかったこともあり、表舞台に出てくる機会は少なかった。でも、1歳違いの僕としては、もっともっと日本のサッカーのためにがんばってほしかった。ただただ寂しいよ。

 心からご冥福をお祈りします。

(16)>>ワールドカップ前のシーズンが開幕 セルジオ越後が期待する欧州組、心配する欧州組の名前

著者プロフィール

  • セルジオ越後

    セルジオ越後 (せるじお・えちご)

    サッカー評論家。1945年生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。17歳の時に名門コリンチャンスのテストに合格し、18歳の時にプロ契約を結び、MF、FWとして活躍した。「エラシコ」と呼ばれるフェイントを発案し、ブラジル代表の背番号10を背負った同僚のリベリーノに教えたことでも有名。1972年に日本リーグの藤和不動産(湘南ベルマーレの前身)から誘いを受け、27歳で来日。1978年から日本サッカー協会公認の「さわやかサッカー教室」で全国を回り、開催1000回以上、のべ60万人以上を指導した。H.C.日光アイスバックスのシニアディレクター。日本アンプティサッカー協会最高顧問。公式ホームページ【http://www.sergio-echigo.com】

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