2019.12.06

稲本潤一が語るドイツW杯。
初戦のオーストラリア戦で裏目に出たこと

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • photo by Kyodo News

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第11回
なぜ「史上最強」チームは崩壊したのか~稲本潤一(1)

 2006年ドイツW杯本大会の直前、日本代表はドイツとテストマッチを行なって2-2で引き分けた。

 アジアの小国にホームでドロー。ドイツにとっては、本大会に向けて危機感を募らせる結果になった。

 日本にとっては、本番に向けて「イケる」という手応えを得る試合になった。スタメンで出場した選手たちは、一様に満足気な表情を見せていた。

 だが一方で、微妙な感情を抱く選手もいた。

「たぶんW杯は『(メンバーは)これでいくんやろうな』って思った。ドイツといい試合をしたからね。試合に出ていたみんなは自信を持ったと思う。

 個人的には、もともとレギュラーが結構固まっていたとはいえ、やっぱりすべてが面白くはなかったですよ。ケガをしてポジションを失ったけど、ベンチに座って不満がない人はいないんでね......」

 ベンチで見ていた稲本潤一は、そんなふうに思っていた。

 稲本は、日本代表の指揮官にジーコ監督が就任した時、同監督から活躍を期待された選手の1人だった。ジーコ監督初采配となった親善試合のジャマイカ戦(2002年10月16日)では、稲本、小野伸二、中村俊輔、中田英寿の4人が中盤を構成。「黄金のカルテット」と称され、ファンを楽しませ、夢を与えた。

 その後も稲本は、ジーコジャパンの中心選手としての自覚を持ち、2006年ドイツW杯で活躍することを目標としてプレーし続けていった。

 ところが2004年6月、親善試合のイングランド戦で左足腓骨を骨折し、長期の戦線離脱を余儀なくされた。

 それ以降、稲本が担っていたポジションは福西崇史が穴を埋めた。そのまま、福西は優勝したアジアカップで活躍し、W杯アジア1次予選、最終予選でも存在感を示して、不動の地位を築いた。そして、最終予選のバーレーン戦から、中田英がボランチの位置に下がって、レギュラーの枠は完全に埋まってしまった。

 その結果、稲本はケガから復帰したあとも、ベンチに座っていることが多くなった。

「(ケガから復帰後)試合にはちょくちょく出させてもらったけど、(先発した)2004年12月の親善試合のドイツ戦で負けたりして(0-3)、(自分が出場した試合で)結果がついてこなかった。しかも、当時はフクさん(福西)のパフォーマンスがすごくよかったからね。