指導者になった手島和希が
あらためて感じた「黄金世代」のすごさ
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世界2位の快挙から20年......
今だから語る「黄金世代」の実態
第15回:手島和希(後編)
ワールドユースを経験し、自らの成長を感じたという手島和希。photo by Yanagawa Go 1999年ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会で準優勝という結果を残したU-20日本代表。凱旋帰国したチームは、大勢のメディアとファンに出迎えられた。その賑わいに、手島和希も驚いた。大会へ出発した際には、空港のロビーまで見送りに来た人など、ほとんどいなかったからだ。
ただ、選手たちに世界2位となった余韻に浸っている暇はなかった。手島は辻本茂輝、遠藤保仁とともに、当時所属の京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)に戻って、Jリーグの戦いの舞台に臨んだ。チームは下位に低迷していたが、手島自身は、世界大会に挑む前とは違う、何かしらの手応えをつかんでいたという。
「ワールドユースを戦い終えて日本に帰国したら、(自分の中で)感覚的に"やれるな"というものがあったんです。自信というか、なんというか。それで、チームに合流してすぐに試合にも出させてもらって、Jリーグでも今後『やっていける』という感覚を得ることができました。その感覚は、ナイジェリアに行く前とは明らかに違いましたし、多少は成長できたかなって思いましたね」
チームに復帰後、手島はレギュラーとして定着。京都の最終ラインに欠かせない存在になっていた。しかし、チームは下位に低迷。1999年シーズンこそ、年間12位となって何とかJ1残留を果たすも、翌2000年シーズンは年間15位となって、J2に降格した。
その間、ナイジェリアで一緒に戦った中田浩二や酒井友之らは、2000年シドニー五輪代表チームに招集され、アジア予選を戦って、本番のシドニー五輪にも出場していた。だが、手島に声がかかることはなかった。その後、日本代表にも縁がなく、2002年日韓共催W杯では同世代の活躍をテレビで見ていた。
2003年にジーコ監督が指揮官となった日本代表に招集されたことがあるが、そのときも故障で参加することができなかった。
ワールドユース以降、手島は代表という舞台からは遠く離れてしまった。カテゴリー別とはいえ、U-20代表でプレーし、世界でも結果を残した経験から、悔しさや焦りといったものはなかったのだろうか。
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