福田正博「20年前のドーハは『悲劇』じゃない」 (2ページ目)

  • 飯尾篤史●構成 text by Iio Atsushi photo by AFLO

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オフトに対して最初は
不信感でいっぱいだった

 1993年10月、オフトジャパンはカタールのドーハで集中開催されたW杯最終予選に臨んでいた。

 このとき、日本列島は空前のサッカー熱に覆われていた。同年5月、日本初のプロサッカーリーグが誕生したことに加え、日本代表が初めてW杯への扉を開くかもしれないという期待が熱狂に拍車を掛けていた。

 1992年春に初の外国人指揮官、オランダ人のハンス・オフトを迎えた日本代表は、短期間で成長を遂げていく。同年8月のダイナスティカップ(現・東アジアカップ)で、中国、北朝鮮、韓国をおさえて東アジアのトップに初めて立つと、11月にはそれまでグループステージさえ突破したことのなかったアジアカップでも優勝し、アジアの頂点へと登り詰めた。

 三浦知良、ラモス、柱谷哲二、福田、中山雅史ら個性派集団の躍動は、新時代の到来を感じさせた。

 もっとも、チームは発足当初から順風満帆だったわけではない。

 当時、チームの中核をなしていたのは、ヴェルディの選手たち(三浦、ラモス、北澤豪、武田修宏など)だった。彼らの標ぼうする狭いエリアをショートパスで打開していくブラジルスタイルのサッカーと、「サッカーはもっとシンプルなものだ」と強調するオランダ人指揮官のスタイルは、相反するところが多かったのだ。

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