【日本代表】豊田陽平「自分が代表に選ばれたら......」

  • 小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki
  • 藤田真郷●写真 photo by Fujita Masato

1985年4月11日、石川県生まれ。星稜高校卒業後、2004年、名古屋グランパスに加入。モンテディオ山形、京都サンガを経て2010年からサガン鳥栖でプレイ。2011年はJ2得点王となりチームのJ1昇格に貢献。2012年は得点ランク2位となる19点をあげベストイレブンにも選ばれた。北京五輪代表1985年4月11日、石川県生まれ。星稜高校卒業後、2004年、名古屋グランパスに加入。モンテディオ山形、京都サンガを経て2010年からサガン鳥栖でプレイ。2011年はJ2得点王となりチームのJ1昇格に貢献。2012年は得点ランク2位となる19点をあげベストイレブンにも選ばれた。北京五輪代表連載・ブラジルW杯を狙う刺客たち(3)~豊田陽平(サガン鳥栖)~後編

 ブラジルW杯を目指すために、豊田陽平は今季もサガン鳥栖でプレイすることを選んだ。
その思いは通じるのか。メンバーが固まりつつあるザックジャパンの中へ割って入ろうとしている若きプレイヤーたちは今、何を思いながらプレイしているのか。

 2007年7月、豊田は死にかけたことがある。

 F・マリノスとのサテライトリーグ、横浜市内にあるマリノスタウンで行なわれた試合。後方から前方へ放たれた味方のパスに走り込もうとした豊田は、それを防ごうとするディフェンダーと激しく交錯した。相手の膝が腹部に入ったのと、痛みを感じたのはほぼ同時だった。立ち上がれず担架で運ばれ、その場に苦悶の表情でうずくまる。

「少し待ってください」

 豊田は「交代するか?」というトレーナーの問いに、待ったをかけている。みぞおちに入ったなら、時間と共に痛みは治まり、プレイ再開が可能だからだ。気力を振り絞り、ピッチに立ち続けるつもりでいた。ところが痛みは一向に治まらず、歩くのすらままならない。仕方なく、交代を申し出た。

 突然、強い便意を催し、這うようにしてトイレに行く。だが、いくらいきんでも何も出てこない。出るのは冷や汗だけ。経験したことのない激痛が体中をうねっていた。救急車が呼ばれ、三ツ沢町の市民病院に担ぎ運ばれたが、痛みに悶え、モルヒネを打たれてもまったく効果がない。

「頼むからもう一本打って欲しい!」

 豊田は必死に懇願していた。医者が顔をしかめる。立て続けに2本目のモルヒネを打つのは異常事態だからだ。

 初診では重大な症状が見られなかったが、CTスキャンにより腹部の裏側に破裂が起こっていることが判明した。診断名は「小腸破裂」だった。

「このままでは生命に関わります。すぐに緊急手術しますよ」

 豊田はぼやけた頭で承諾した。

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