【日本代表】豊田陽平が語るJリーグとW杯への思い (2ページ目)

  • 小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki
  • 藤田真郷●写真 photo by Fujita Masato

 しかし妻に移籍オファーの話を伝えながら、家族旅行で上海に行ったときの風景を不意に思い出した。ツアーガイドが「こちらのスタジアムはサッカークラブ、上海申花の本拠地でございます」と笑顔で紹介していた。スタジアムは立派な建築物だったのを覚えている。

<あそこで自分がプレイする......>

 その想像に妙な既視感を覚えたが、それを振り払った。ブラジルW杯出場を目指す男にとって、中国リーグは望んで行くべき場所ではない。

「活躍すればもっと良いオファーはあるはず。自分は上のステージでやれる自信はあるし、現状に甘んじている場合ではない。自分はこれからですよ」

 男は燃えるような目で言い放った。

 27歳になる豊田は、石川県小松市出身。星稜高校時代は、スポーツテストであの松井秀喜を上回ったことで校内を騒がせた。高校選手権にはFWとして出場して注目を集め、卒業後は名古屋グランパスエイトに入団。しかし3シーズン所属したものの伸び悩み、一念発起してJ2のモンテディオ山形に新天地を求めている。そこでゴール数を積み上げ、北京五輪代表に選ばれた。

「平山相太、森本貴幸以上に、日本人FWとしては総合力が一番高かった。高さ、強さがあったし、肉食系というか、プレイに気魄を感じさせた。とりわけ守備でチェイシングを厭I(いと)わない。日本が世界の強豪と戦うには彼のタフネスがチームに不可欠だった」とは、当時の五輪チームを率いた反町康治監督(現在は松本山雅を指揮)の弁である。

 豊田は北京五輪のナイジェリア戦で大会唯一の得点を記録している。だが、それは強く人々の記憶には残っていないかもしれない。2連敗を喫した日本は、早々に大会から去ることが決まった。

 五輪後は当時J1に在籍していた京都パープルサンガに移籍したものの、満足な試合出場機会に恵まれていない。失意の中でJ2サガン鳥栖に移籍。1年目で試合勘を取り戻し、2年目にJ1に昇格させる立役者になった。そして3年目はJ1でも得点王を争い、日本代表招集が取りざたされるまでに至る――。

 プロフィールにすればわずか数十行だろう。しかし、そこに書き込まれない話こそが、今の彼を形成している。

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