「君がマスクを被るのは優勝するためだ」 世界の王貞治と20歳の城島健司が築いたホークス黄金時代の礎 (3ページ目)
── 王監督の野球を体現するために、時には正面からぶつかったという話もよく耳にしますが。
城島 正捕手になったばかりの頃は、当然ながらうまくやれないことばかり。だけど、とにかく同じ失敗はダメだと思って監督の部屋を訪ねて、何度も膝を突き合わせて話をしました。そのたびに怒られましたよ。だけど、僕もハタチの若造ながらに遠慮せずにぶつかる。だから言い合いになることもしょっちゅうでした。手を上げられたことはなかったけど、椅子が飛んできたことはありました(笑)。
試合中だってベンチでは監督のすぐ目の前に座るから、攻撃中は自分の打順以外グラウンドに背を向けてしゃべっているほうが多かった。王監督も僕との話に熱くなって三塁コーチャーにサインを出すのを忘れて、周りから「監督!」と声が上がることもありました(笑)。いま考えると、まだハタチで経験も知識も少なくて幼稚な話をしていたはずです。それでも王監督はしっかり耳を傾けてくれていました。若いなりにコイツは一生懸命しゃべっているな、自分の思いをぶつけてくるなと思ってくれていたのではないでしょうか。
── ただ、1997年も4位で20年連続Bクラス。1998年は3位タイでAクラス入りも優勝は果たせませんでした。
城島 1998年は最後の最後まで優勝争いに加わって、シーズンの残り5試合を全勝すれば優勝のチャンスがあるというところまでいきました。だけど、結局は5連敗。ただ、優勝の目がなくなった時も、王監督は「せめて2位になろう」とか「Aクラスで終わろう」などとはいっさい言いませんでした。
当時はずっとBクラス。普通ならばAクラス入りだってモチベーションになると思うじゃないですか。だけど、王監督のなかでは、優勝しなければ2位も6位も同じ。最初にオーストラリアで「君たちに優勝を味わってほしい」と言ったあの時から、何もブレなかったんです。2025年の今でも同じですよ。今日まで王さんの口から優勝以外の言葉は聞いたことがありません。
城島健司(じょうじま・けんじ)/1976年6月8日生まれ、長崎県出身。別府大付高(現・明豊)から94年ドラフト1位でダイエー(現・ソフトバンク)に入団。入団3年目の97年から正捕手となり、99年は全試合出場を果たし、球団初のリーグ優勝、日本一に貢献。その後も"強打の捕手"としてホークス黄金期を支えた。2006年にFA権を行使し、シアトル・マリナーズに移籍。捕手としてレギュラーを獲得し、18本塁打を放った。その後、09年までプレーし、10年に阪神で日本球界復帰。12年に現役を引退し、趣味である釣り番組に出演するなどタレントとして活動していたが、20年からソフトバンクの会長付特別アドバイザーとして球界に復帰。25年からホークスのCBO(チーフ・ベースボール・オフィサー)に就任した
著者プロフィール
田尻耕太郎 (たじり・こうたろう)
1978年生まれ、熊本市出身。 法政大学で「スポーツ法政新聞」に所属。 卒業後に『月刊ホークス』の編集記者となり、2004年8月に独立。 九州・福岡を拠点に、ホークスを中心に取材活動を続け、雑誌媒体などに執筆している。
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