検索

鍵谷陽平が語るふたりの名将 グラウンドでしか会わなかった栗山監督とサウナで野球談義を交わした原監督 (4ページ目)

  • 市川光治(光スタジオ)●取材・文 text by Ichikawa Mitsuharu(Hikaru Studio)

チームメイトから胴上げされる鍵谷陽平氏 photo by Hosono Shinjiチームメイトから胴上げされる鍵谷陽平氏 photo by Hosono Shinjiこの記事に関連する写真を見る── 鍵谷さんは引退セレモニーのスピーチで、苦しいことのほうが多かったと言っていました。一番苦しかったことは何ですか?

鍵谷 やっぱりケガをして投げられなかったことですね。ヒジを肉離れして、そこから感覚が戻るのに時間がかかって......。なかなか結果も出ないし、自暴自棄というか、ケガしちゃうと苦しい期間が長くなってしまう。怖さというのも年々刻まれますし、ケガしたら終わってしまうという恐怖も出てきますから。

── そう言えば、引退が決まってすごく充実したというか、やり切ったと言っていたじゃないですか。今でもその気持ちは変わらないですか? もうちょっとできたな、みたいなことは?

鍵谷 もう一度もがくよりも、スパッと次に進めてよかったです。1年でも長く選手をやれるに越したことはないでしょうけど、必ず終わりは来ますし、次の人生のほうが間違いなく長いですからね。終わってからでも何不自由なく暮らせるくらい稼いでいたら話はまた別なのかもしれないですけど(笑)。なので、ここから新しい人生に挑戦しようと考えました。12年間プロ野球選手としてやれて、優勝も3回させてもらって、日本一も経験できた。すごく濃い時間を過ごせたと自負しています。それこそファイターズ、ジャイアンツという正反対のチームだけど、どっちも強い時期、苦しい時期を経験できたこともよかった。そういった経験があったから、後悔なくやり切ったと思えたのかもしれないですね。

── これからの人生のほうが長いですからね。

鍵谷 そうなんです。まだ子どもも小さいですし、頑張らないと。僕が純粋にやりたいのは、才能ある若い子が鎌ヶ谷にたくさんいるので、彼らがどうなっていくのか見届けたいし、そのサポートをしたいなと思っています。

鍵谷陽平(かぎや・ようへい)/1990年9月23日、北海道亀田郡七飯町出身。北海高から中央大に進み、2012年ドラフト3位で日本ハムに入団。1年目から38試合に登板するなど、おもにリリーフとして活躍。17年にはシーズン60試合に登板した。19年シーズン途中から巨人に移籍。23年オフに戦力外通告を受けるも、古巣である日本ハムと育成契約を交わす。24年7月に支配下になるも一軍登板の機会がなく、9月に現役引退を発表。25年から日本ハムのチームスタッフとして活動する。妻は女優の青谷優衣

鍵谷陽平フォトギャラリー〜女優の美人妻とのツーショット写真も

4 / 4

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る