藤田平が語った江川卓 「あの時代からすでにメジャー流の投げ方をしていた。まさに異次元の投手」
連載 怪物・江川卓伝〜藤田平が明かした攻略法(後編)
1965年にドラフト2位で市立和歌山商業から阪神に入り、生え抜きとして初めて名球会入りした藤田平。81年には打率.358で首位打者を獲得。奇しくもこの年は、江川卓が初めて20勝を挙げ、投手五冠(最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多完封、最多奪三振)を達成した年でもある。お互いキャリアハイとなった81年、藤田は江川をどう攻略したのか。
阪神の生え抜き選手として初の2000本安打を達成した藤田平 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【今風だった江川卓の投球フォーム】
「江川君が全盛期だろうと、僕はあんまり苦にせなんだ。コントロールがいいからね。コントロールの悪いピッチャーは怖くて打てる感じがしなかったんだけど、コントロールのいいピッチャーはわりと山を張りやすいというかね、狙っていたらそこへ来るという感じだから」
江川は速いストレートを投げながら、抜群のコントロールも誇っていた。球が速くてコントロールの悪いピッチャーは、どこに投げてくるのかわからず、恐怖心が増幅される。巨人V9時代のエース・堀内恒夫が荒れ球だったのは有名で、だからと言って四球を連発するわけではなく、荒れ球を生かしながらストレートと大きく縦に割れるカーブで打者を翻弄していた。
そういう点でいくと、江川のコントロールのよさは打者に安心感を与え、思い切り踏み込んでいける。
また江川の特徴として必ず挙げられるのが、フォームの特異性だ。かつてのエースと言えば、ワインドアップから足を上げ、テイクバックを大きく取る迫力あるフォームが常だった。それに対し、江川はテイクバックが小さく、ゆったりとした力感のないフォームだった。
「今のピッチャーを見ていると、テイクバックが小さい。これは88年に広岡達朗さんが日米野球サミットを開催し、アメリカからメジャー関係者を多数呼び、テイクバックが小さいフォームで放るというのを持ち込んだんですよ。それから日本球界も年数を経るごとに改良されて、今のように重心が高く、テイクバックが小さいフォームになった。
昔のピッチャーは、右投げであれば右膝に土がつくほど重心が低く、地を這うような感じで放ってきたよね。今は倒れながら放ってくるから、間(ま)が持てないピッチャーが多い。ステップした足の幅が狭いよね。昔のピッチャーはステップ幅が広く、粘りながら最後は前に飛ぶようにして投げていた。ソフトボールのピッチャーのような感じでね。そう考えると、江川のフォームって、今風ってことですわ。あの時代に、ひとりだけあの投げ方で打者を抑えていたんだからね。やっぱり異次元の投手ですよ」
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著者プロフィール
松永多佳倫 (まつなが・たかりん)
1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。