江川卓の全盛期を知る田尾安志は、野茂英雄のストレートに「この程度か...」と速さを感じなかった (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 プロの一流バッターというのは、ボールを点で捉えるのではなく、あくまで球の軌道を想定してアジャストするのだ。つまり、予測する軌道がずれると空振りする。江川のストレートはまさに予測不能だったため、打者は空振りしてしまうのだ。

「とにかく江川は、調子のいい日と悪い日がはっきりしているピッチャーでしたね。僕なりに攻略法を見つけたんですけど、江川を打つには得点圏にランナーがいないときにホームランを狙うこと。得点圏にランナーが進むと、気合いの入り方がガラッと変わる。だからランナーのいないときがチャンスで、そこでヒットじゃなく、ホームランを狙いにいくぐらいの気持ちでいかないとダメ」

 70年代から80年代、中日の主砲として活躍した谷沢健一も同じようなことを言っていた。江川を打つには、ホームランを狙うつもりでいかないと球威に圧倒されてしまうという。ミートに徹する打法ではなく、あくまで強く振り抜いてピンポイントで狙う。

「江川はきれいなスピンの効いたストレートを投げるから、ボールが伸びてくる。僕は、いくら速くても振り遅れるってことを感じたことはない。だからミートするポイントは間違ってないんですけど、普通のピッチャーだとここだってところが、江川の球はもっと上に来ているってイメージですよね。だから厄介なんです」

 1981年から84年まで4年連続3割を超え、82年には長崎慶一(大洋)と壮絶な首位打者争いをして3割5分の高打率を残した田尾と江川の全盛期が被っているだけに、互いに高い次元でプライドをかけて対決していたのは間違いない。

 田尾は江川の球を厄介だと思う反面、自身の状態がいいときは対決が待ち遠しいと思っていた。それは一流のバットマンだけが知る、壁が高ければ高いほど己の技術を試せる悦びに変わっていくからだ。田尾にとって江川は、まさにそびえ立つ高い壁だった。

(文中敬称略)

つづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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