江川卓に初めて投げ勝った遠藤一彦は「おいおい、勝っちゃったよぉ」と歓喜 翌年から2年連続最多勝に輝いた

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

連載 怪物・江川卓伝〜大洋のエース・遠藤一彦が抱いた畏怖の念(後編)

 1980年代の大洋エースといえば遠藤一彦。テレビ中継において、センター方向から映るマウンドに立つ遠藤は、スラっとした長身に加えて手足が長く、ユニフォーム姿がとにかく格好よかった。

 一方、江川卓はテレビ画面から見てもわかるがっしりした体型で、お世辞にも格好いい体型とは言えず、年々、体重増加がひと目でわかるほど横に大きくなり、いかにも重そうな体つきだった。

83、84年と2年連続最多勝に輝いた遠藤一彦 photo by Sankei Visual83、84年と2年連続最多勝に輝いた遠藤一彦 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【江川卓から待望の初勝利】

 遠藤と江川は先発として通算11試合投げ合い、勝敗は4勝4敗の五分である。そのなかで遠藤にとって忘れられない一戦がある。

 1982年9月21日、横浜スタジアムでの大洋対巨人戦。

「まず江川にソローホームランを打たれて先制されたんです。そしてウチが追いついて、またリードされて7回裏に逆転して3対2で勝ちました。『おいおい、江川に勝っちゃったよぉ』という感じでした。とにかくあの江川に投げ勝てたっていうのが自信になり、翌年の最多勝にもつながったと思いますよ」

 遠藤は13奪三振の完投。同級生である江川との3度目の対決で、初めて勝つことができた。今まで天と地との差だと思っていたのが、逆転とまでいかないにしても、確実にその差は縮まっていると確信した。ちなみにこの試合に敗れた江川は、対大洋戦の連勝は10でストップとなった。

 遠藤といえば、80年代のセ・リーグを代表する「フォークの名手」として名を馳せていた。ストレートと変わらぬ速さでブレーキ鋭く落ちるフォークで、強打者たちを黙らせていた。年々改良していくことで、「真っすぐ」「スライダー気味」「シュート気味」に落ちる3種類のフォークを投げ分けることができるようになった。

「1年目が終わったあとの秋季練習で、スカウトから『何かもうひとつくらい球種を覚えたほうがいいんじゃないか』って言われたことがきっかけでフォークの練習を始めました。毎日猛練習して、1カ月で習得できました。

 フォークについてのアドバイスはいろいろ受けましたね。ちょうどキャッチャーの辻(恭彦)さんが、阪神時代に村山(実)さんのボールを受けていたので、『村山さんはフォークをこういうイメージで放ったぞ』と、いろいろ情報をいただいたことが参考になったというのもありますね。村山さんは指が短かったため、水かきのところをナイフで切って広くしたって話ですから。

 僕も指は短いんです。だから、僕の場合はとにかく指を開く練習をしました。村田兆治さんは人差し指と中指に鉄アレイを挟んで鍛えていたそうですが、僕はビール瓶でやっていました。ボールを挟んで、真っすぐを投げるイメージですので、肩やヒジにはまったく負担はかからなかった。僕のフォークは、自分ではそれほど激しく落ちていると思ったことはないですし、スピードが速いと思ったこともありません。ただ、バッターがよく空振りしてくれるなっていうのはありましたけどね」

 一般的にフォークは、指の長い人が投げるイメージがある。ボールを挟んで投げるため、指が長いほうが有利なのは間違いないが、だからといって指が短いから投げられないわけではない。とにかく遠藤は、挟む力を鍛えることで独自のフォークをマスターしようとした。

「真っすぐの走りがいいと、フォークもいいです。やっぱり、自分のなかでは真っすぐを放っているのと同じイメージで投げていましたから。感覚的にはストレートを投げるイメージなので、あとはうまく抜けてくれるかどうかでしたから。真っすぐをアウトコース、インコースに投げ分けるイメージで腕を振ると、同じ軌道から落ちてくれます。狙ったコースにだいたい投げられるというのはありました」

 野茂英雄や佐々木主浩が現れる前、当時のプロ野球ではロッテの村田兆治がフォークの達人としてパ・リーグで活躍。そんななか、セ・リーグでは遠藤がフォークの使い手として台頭し、球界を代表する投手へと成長していった。

【異質なボールを投げていた江川卓】

 江川が80年、81年と2年連続最多勝に輝くと、それを受け継ぐように83年、84年は遠藤が最多勝のタイトルを獲得。それでも遠藤は、江川に勝ったとは一度も思ったことはなかった。

「プロでいろんなピッチャーを見てきたけど、一番すごいと思ったのはやっぱり江川です。ちょうど僕がプロに入った頃、ヤクルトに松岡弘さんがいて、ジャイアンツに堀内恒夫さん、中日に星野仙一さん、阪神に江本孟紀さん、広島に池谷公二郎さん、そして大洋にも平松政次という昭和を代表するピッチャーがいました。

 でも、そういったピッチャーの方たちが年齢とともに、だんだんとスピードが落ちてきた頃です。各チームとも同じように世代交代の時期に差しかかっていました。僕と同じ年に入団した中日の小松辰雄も速い球を投げていましたが、江川とは球質が違うんですよね。表現するのが難しいのですが、スピンの効いたボールと効かないボールっていうんですかね。その違いはありました」

 江川のボールについて語る時、必ず話題になるのがスピン量だ。通常、スピン量が多いほど空気抵抗が少なく、揚力が発生する。ゴルフボールなら簡単に浮き上がるが、重量のある野球の硬式ボールが浮き上がることは、物理的にまず不可能。しかし、江川と対戦した打者は口々に「浮き上がって見えた」と証言する。

「江川のボールは本当にスピンが効いていて、それでいて重さもある豪速球。(中日の鈴木)孝政さんのボールもスピンが効いていて快速球なんですけど、重さはなかった。だから、当たったら飛んでいくんです。小松は速くて重いんだけど、浮き上がってくる感覚はない。力いっぱい投げて、ズドンとくる感じです。江川は体をしなりから出てくるボール。バッティングマシンでたとえるなら、アーム式とローラー式の違いです。アーム式ってズドンとくるじゃないですか。でもローラー式ってギュンってくる。その違いです」

 往年の名プレーヤーが江川のボールを説明する際、必ず「ギュイン」「グワーン」といった擬音語で表現されることが多い。高速回転でくるボールが浮き上がってくるイメージだ。江川のライバルと称され、2年連続最多勝、沢村賞を受賞したほどの遠藤でさえ、その異次元のボールに圧倒されたと語る。

「最初から江川卓には勝てないですから」

 遠藤は目をまっすぐに見つめ、実直なまでにはっきりと言いきった。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

フォトギャラリーを見る

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る