ヤクルトGMが感謝する青木宣親の変身と献身 「若手にいろいろなところで影響を与えてくれた」 (4ページ目)

  • 島村誠也●文 text by Shimamura Seiya

【山崎晃大朗は自身も引退を決断】

 そして青木の引退試合が近づくなか、戸田から一軍を目指していた選手たちに大きな変化が訪れた。

 丸山は「青木さんには『戻ってきました』と普通にあいさつして『頑張れよ』と言ってもらえました」と、今は一軍で元気なプレーを見せている。

「青木さんが引退する日には絶対に一緒にユニフォームを着ていたいと思っていて、二軍に落ちてからもこの1カ月、その思いでやってきました。引退試合では、できればグラウンドの上で一緒にプレーしたいですし、『ここまで成長できました』『まだまだもっと頑張ります』というのを表現したいです」

 山崎は9月25日に自身の引退を決断。

「右ヒザの状態と、もともとメニエール病(めまいや吐き気が繰り返し起こる病気)に悩まされていて、それがちょくちょく起こるようになったのが理由です。自分のコンディションや体調という面で覚悟していた部分もあったので、球団とも話し合って決めました」

 山崎は9月29日、戸田での二軍最終戦の最終打席にライトへ気持ちのいいホームランを放ち、10月3日の一軍最終戦(神宮)でファンに最後の別れを告げる。

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青木宣親(あおき・のりちか)/1982年1月5日、宮崎県生まれ。早稲田大学から2003年ドラフト4位でヤクルトに入団。最多安打、首位打者、盗塁王、最高出塁率、ゴールデングラブなど、数々のタイトルを獲得。「走・攻・守」三拍子揃った球界を代表する好打者に成長。またWBC、五輪など国際大会にも選出され、日本代表の勝利に大きく貢献。12年にMLBのブリュワーズと契約し、レギュラーを獲得。14年にロイヤルズ、15年にジャイアンツ、16年にマリナーズ、17年はアストロズに所属し、日米通算2000本安打を達成。シーズン途中にブルージェイズ、さらにメッツへ移籍。18年、ヤクルに復帰。 21年、日米通算2500安打を達成した

著者プロフィール

  • 島村誠也

    島村誠也 (しまむら・せいや)

    1967年生まれ。21歳の時に『週刊プレイボーイ』編集部のフリーライター見習いに。1991年に映画『フィールド・オブ・ドリームス』の舞台となった野球場を取材。原作者W・P・キンセラ氏(故人)の言葉「野球場のホームプレートに立ってファウルラインを永遠に延長していくと、世界のほとんどが入ってしまう。そんな神話的レベルの虚構の世界を見せてくれるのが野球なんだ」は宝物となった。以降、2000年代前半まで、メジャーのスプリングトレーニング、公式戦、オールスター、ワールドシリーズを現地取材。現在は『web Sportiva』でヤクルトを中心に取材を続けている。

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