角盈男や西本聖たちは、1歳上の江川卓をどう呼ぶべきか悩んだ挙句「スグルちゃん」に決めた (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 そうした経緯もあり、巨人に入団してきた江川を素直に受け入れることはできないと思いながらも、一緒に練習するうちに器の違いを見せつけられ、潔く認めるしかなかった。

「オレはリリーフだから、先発の江川さんと一概に比較できないけど、江川さんがバテた時には投げられるようにと頑張ってきた。ほかのヤツだって、同じだったと思う。江川さんがいたから、オレらのレベルも上がったと言っても過言ではないですよ」

 江川の加入によって投手陣は刺激され、とくにひとつ下の角たちの世代は切磋琢磨して、レベルアップに励んだ。

 江川が入団した1979年の秋、伝説と呼ばれる"伊東キャンプ"が行なわれた。当時はシーズンが終了すると、秋のオープン戦があり、またトレーニングをするといっても自主トレに近い形でしかなかった。それが監督である長嶋茂雄のもと、球団主導で異例の秋季キャンプを行なったのだ。このあたりから、各球団とも秋季キャンプが慣習化されていくのだが、当時はまだ珍しかった。

「V9の選手がほとんどいなくなり、レギュラーポジションが空いてしまう。『レギュラーは与えられるものじゃなく奪い取るものだ』という長嶋さんの発想で、あの伊東キャンプをやったんです。V9の最後を知る河埜(和正)さんがいただけで、ほかは全員若手。

 長嶋さんは、1番と4番、それと抑えをつくることを目標にしていたと何十年後に聞きましたけど、とにかくピッチャーは全員課題を持ってやっていました。江川さんは真っすぐとカーブしかないから新しい球種を、ニシは真っすぐとシュートしかないからカーブを覚えていました。コーチに立ってもらって、すっぽ抜けたボールを頭にぶつけたりしながら、一生懸命やっていました」

 翌80年には王貞治、高田繁が、81年には柴田勲が引退。V9戦士の相次ぐ引退により、80年台の巨人は、江川、西本、原辰徳、中畑清らを中心とした「ヤングジャイアンツ」と呼ばれ、新しい時代を築いていくのであった。

(文中敬称略)

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江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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