関根潤三に請われヤクルトのコーチとなった安藤統男は、選手たちに激高「おまえらそれでもプロか!」 (2ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi

 こうして、安藤は関根の近くで3年間にわたって、ヤクルトスワローズの土台づくりを担うことになる。若いチームを牽引する根幹に定めたのが「イケトラコンビ」こと、池山隆寛と広沢克己(現・広澤克実)だった。

【ヤクルト版・地獄の伊東キャンプ】

 就任1年目となる87年、アメリカ・ユマキャンプで安藤は愕然とする。チームに覇気がまったく感じられなかったからだ。活きのいい若い選手はたくさんいた。前述の池山、広沢だけでなく、キャッチャーの秦真司、飯田哲也、内野手には土橋勝征、外野手には栗山英樹がいて、この年新人王を獲得することになる荒井幸雄が揃っていた。

「だけど、それまでずっと低迷していたから、チーム全体が甘いんです。キャンプ終盤になると、『早く日本に帰りたい』という思いになって、練習にまったく身が入らない。だから、『ここはきちんと締めなくちゃいかん』ということで、みんなを集めて、『おまえらそれでもプロか、プロならば最後まできちんとやれ!』と怒鳴り散らして、積み上げてあったグラブの山を蹴り上げましたよ(笑)」

 このやり取りを見ていた関根はことのほか喜び、「アンちゃん、ありがとう、助かったよ」と告げたという。関根が求めていたものは「厳しさ」だった。それこそ、当時のスワローズに欠けていたものだった。そして、若い選手が多いからこそ、「プロとしての自覚」も求めた。安藤は、関根の意図をしっかりと汲み取っていた。

「これは後の話になるけど、オフシーズンになってから、静岡の伊東で秋季キャンプを行ないました。この時、池山や広沢を徹底的にしぼり上げました。朝10時から12時半までとことんバッティング練習をして、13時からは2時間ほどひたすらノックをする。この時、《ブドウ園》と呼ばれる練習もしました。かがんだ状態の高さにネットを張って、中腰のままノックを受ける練習です。頭の高さにネットがあるから立つことができない。ずっとかがんだままノックを受け続ける。これは相当、きつかったはずです」

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