基満男は高木豊を起用した関根潤三に憤慨 「ポジションというのは与えられるもんじゃない。奪うものだよ!」 (2ページ目)
しかし、関根監督2年目となる83年シーズン、基と高木の立場は逆転する。セカンドのレギュラーに高木が定着し、基は控えに甘んじることとなった。この年、高木は125試合に出場して打率.314を記録。一方の基は、おもに代打中心で58試合の出場に終わったのである。
【ポジションは与えられるものじゃない】
40数年前を振り返る基の口調が強くなる。
「オレが言いたいのは、『競争させろ』っちゅうことだよ。平等に競争させたうえで、誰がレギュラーにふさわしいかを決めればいい。でも、この時はまったく競争がなかった。初めから『今年は豊を使おう』と決めていて、そのとおりにシーズンが進んでいった。大きなケガをしたわけでもないし、不調だったわけでもない。それなのにまったく使ってもらえない。まったく競争がなかった......」
そして基は、吐き捨てるように言った。
「......ポジションというのは与えられるもんじゃない。奪うものだよ!」
憤懣やるかたない思いが伝わってくるひと言だった。それは、現役終盤の限られた時間のなかで、みすみす出場機会を奪われてしまった怒りが伝わってくるものだった。この言葉を受けて、生前の関根が出版した『若いヤツの育て方』(日本実業出版社)を取り出すと、「そういうものは見たくもないけどな」と、基の顔が曇った。
この本のなかには83年開幕直後についての言及がある。「基か、それとも高木か?」に対する、関根の考えが述べられている。基の実力、そして功績を綴ったあとに、関根はこんな言葉を残している。
だが、私には若手育成という大きな使命があった。いくら力があるといっても、基はあと五年も十年もやれる選手ではない。私は彼に代わる若手選手を一刻も早く育て上げなければならなかった。
ここで述べられている「若手選手」こそ、高木である。そして、83年開幕直後について、関根が当時の心境を振り返る。さらに引用を続ける。
翌一九八三(昭和五八)年、尻に火がついたかっこうになった基は、キャンプ、オープン戦と大いに張り切った。高木もレベルアップしていたが、好調基の前には、まだまだひよっこ同然だと思った。私は、ためらうことなく、開幕ゲームのメンバー表に基の名前を書き込んだ。
ここまで読み上げると、基の表情はさらに曇った。「何を言うとるん」と独り言を口にしながら、黙って耳を傾けている。
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