江川卓と初対戦した大洋の主砲・田代富雄はあまりの速さに驚愕した「これがあの江川かぁ」 (2ページ目)
田代の同世代の速球派と言えば、真っ先に鈴木孝政(元中日)が挙げられる。成東高(千葉)時代の鈴木の球の速さは、関東圏では群を抜いていた。甲子園には一度も出場できなかったが、それでも「千葉に鈴木あり」と全国に名を轟かせていた。
江川が1年夏に栃木大会で完全試合を成し遂げ、秋の関東大会では前橋工業に10連続奪三振。全国の強豪校の監督が江川のピッチングを見た人に「江川は鈴木より速いのか?」と聞くほど、速球王として君臨していた。
「孝政は中日のドラフト1位で、デビューも早かった。オレは3年間ファームにいて、4年目に一軍に上がって対戦したけど、あいつはうしろ(ストッパー)にいたのかな。とにかく腕がムチのようにしなって、速かったよ。ボールが地面につきそうなところから伸びてくる。極端に言うと、孝政の球を打つにはボールが手から離れる前にバットを振る。そのくらいの感覚でいかないとダメ。その話をすると、あいつ喜ぶんだよ。『田代、もっと言って、もっと言って』って(笑)」
【巨人にトレードされる寸前だった】
72年のドラフトで地元・大洋から3位指名を受けて入団した田代は、プロ4年目の76年にようやく頭角を現すと、77年は開幕から5試合連続ホームランを放つなど、4月に11本塁打を放ち月間MVPを受賞。この年35本塁打放ち、一流選手の仲間入りを果たした。
生え抜きのホームランバッターとして成長した田代だったが、入団3年目のオフはトレード要員だった。75年にイースタンリーグで首位打者と打点王の二冠に輝いたが、首脳陣に「伸びしろなし」と判断され、巨人とのトレード寸前だったという。それを阻止したのが、クリート・ボイヤーだった。
60年から64年にア・リーグ5連覇したニューヨーク・ヤンキースの三塁手として活躍したバリバリのスター選手が、72年に来日。年齢は35歳だったが、気力、体力ともに衰えを見せておらず、十分に働けるレベルであった。
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