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原辰徳との初対決でホームランを打たれた江川卓は、最終打席に全球ストレートで3球三振を奪ってみせた (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

原辰徳(写真右)との初対決でホームランを打たれるも、最後は3球三振で打ちとった江川卓 photo by Sankei Visual原辰徳(写真右)との初対決でホームランを打たれるも、最後は3球三振で打ちとった江川卓 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【原辰徳との初対決】

 東海大相模高のショートとして活躍した"江川世代"の林裕幸が、当時を述懐する。

「東海大相模と作新は毎年定期戦を行なっており、高校3年の6月に作新学院のグラウンドで練習試合をしました。雨でグラウンドがぬかるんだ状態で試合が始まって、0対0の終盤、相模に二死三塁と先制のチャンスが来たんです。打席には左の俊足打者が入り、オヤジ(原貢)は一か八か、セーフティーバントのサインを出したんです。うまく三塁側に転がし、江川が猛ダッシュしてボールをつかもうとした瞬間、足をとられて尻もちをついてしまった。『点が入ったぞ!』と喜んだのも束の間、江川は尻もちをついたままボールを取って、一塁にひょいと投げてアウトにした。試合後、オヤジは呆れ顔でこう言っていました。『江川はすごい。あのときは点が入ったと思った。ありゃ、大物だわ』と。あのオヤジを感心させたんだから、やっぱり江川はすごいですよ」

 原貢がひとりの選手を褒め称えることなど決してしなかっただけに、選手たちはなおさら江川のすごさを身にしみて感じたらしい。そういった経緯もあって、1977年秋の神宮大会決勝で法政大と東海大が対戦する際、試合前に江川と原貢は会って言葉を交わしている。原貢は辰徳が大学に進学するにあたり、東海大相模から東海大の監督に就任していた。

 11月6日、秋空に似つかわしくないほどの雲ひとつない快晴。大学球界のスーパースター・江川卓と次代を担う原辰徳の対決に、神宮球場は4万人を超す観客で埋め尽くされた。

 第1打席は、江川が原をキャッチャーフライに仕留めた。だが第2打席、原は江川のストレートをレフトスタンドに軽々と運んだ。スタンドからは、女性たちの黄色い歓声が湧き上がる。第3打席は、江川のカーブを引っ掛けるも、三遊間の深いところに打球が飛び内野安打。原は江川からホームランを含む2安打と気を吐いた。

 試合は、法政大が東海大のエース・遠藤一彦に集中打を浴びせ逆転。そして最終回、5対2と法政リードの場面で、原にこの日4回目の打席が回ってきた。

 江川はホームランを打たれたことを少しだけ気に病んでいたのか、この打席に限って本気で投げた。すべてストレートで3球三振。原は「今までの球は何だったんだ?」と呆然とした表情を浮かべ、江川の本当のすごさをようやく体感したのだった。

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江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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