原辰徳との初対決でホームランを打たれた江川卓は、最終打席に全球ストレートで3球三振を奪ってみせた (2ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

「オレが(駒沢)大学4年の時に、同志社大の田尾安志らと日本代表に選ばれて合宿をやったときのこと。江川と駒沢で一緒だった山本(泰之)が練習に遅刻したんですよ。オレたちはランニングをしていたんだけど。すると総監督だった明治の島岡(吉郎)さんが怒りまくって......。江川を正座させて『おまえ、野球を舐めてるのか!』と、まあ制裁がすごいわけですよ。『野球ができない体にしてやる!』と、バッシバッシやってるわけ。今では考えられないけど(笑)。さすがに、ランニングしていたオレたちもまずいと思って、頭を下げて止めにいったけどね」

 明治の島岡御大の厳しさは、今に始まったことではない。スター選手が揃う日本代表でもお構いなしだ。

 そんな大学日本代表だが、江川と並び話題をさらったのが、東海大の1年生・原辰徳だった。マスコミは4年の江川と1年の原を新旧スターとして担ぎ出そうとする。

 合宿前の全日本大学野球選手権で夢の対決があるかと思われたが、法政が準々決勝で敗れてしまい、お預けになった経緯もあり、6月15日から24日までの10日間の合宿では、ほかの選手をよそに江川と原の一挙手一投足に注目が集まった。

 原はアマチュア球界の名将・原貢の息子として生まれ、東海大相模高1年夏から甲子園に出て、持ち前のルックスと強打で一躍人気となり、大学を経て巨人にドラフト1位指名された生粋のスター選手だ。

 そんな原が江川の球を初めて間近で見たのは、前年の大学日本代表チームと三協精機との壮行試合。前座で東海大相模と松商学園が対戦し、試合後、スタンドから江川の投球を見守った。江川のボールを見た原は、異常とも言える伸びに驚いた。

 ちなみに 原貢の名が一躍全国区になったのは、1965年夏の甲子園で三池工業(福岡)の監督として、チームを初出場初優勝に導いた時だ。翌年から東海大相模高の監督となり、70年夏の甲子園で全国制覇。74年から長男の辰徳が入学し"父子鷹"として話題になり、ここから3年間"原フィーバー"がつづくわけだが、指導の厳しさは全国でも屈指と言われていた。選手のことをめったに褒めない原貢だったが、江川のことだけは感心したという。

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