高校時代ホームラン0本の小笠原道大が「フルスイング」を武器にプロ球界屈指の強打者になるまで (3ページ目)

  • 水道博●文 text y Suido Hiroshi

── その時代のトレンドがあるということですね。

小笠原 そうですね。川相昌弘さんの"バントで送る2番打者"の時代もありました。僕の場合は左打者だったので、一塁走者がいれば一、二塁間が大きく空いてヒットゾーンが広がり、ライト前に運べば一、三塁のチャンスをつくることができる。それに当時は、足もそれなりにあったのでダブルプレーも少ない。そういうことを含め、上田監督が"強打の2番"というカードを切ってくれたのかなと思います。

【体勢を崩されてもベストのスイング】

── 2000年から2年連続最多安打、2002年から2年連続首位打者。結果的に「打率3割、30本塁打、80打点」9度は、王貞治さんの13度に次ぐ史上2位の記録です。

小笠原 それは知りませんでした。ただ、その頃は3番打者になって「打率3割、30本塁打、90打点」を残すことを目指していました。

── 小笠原さんは「配球を読んで打つタイプ」「来た球に反応して打つタイプ」のどちらですか?

小笠原 後者です。ただ、配球を読むまではいかないけど、経験値に基づいて"予測"はします。基本ストレートを待っていて、2ストライクまで空振りしてもいいという気持ちでいました。

── どういうことを考えて打撃練習に取り組んでいたのですか。

小笠原 投手は打者の体勢を崩そうとして投げてくるものです。だから、体勢を崩されてもバットの芯で当てられるように打撃練習をしていました。崩された体勢でのベストに近いスイングを体にインプットさせておけばいいのです。

── それが小笠原流「打撃の極意」なのですね。プロ10年目の2006年にはシーズンMVPを受賞し、日本一にも輝きました。

小笠原 私は2003年から選手会長を拝命しました。応援してくれるファンのみなさんのあと押しもあって、北海道移転3年目に1981年以来25年ぶりのリーグ優勝、そして日本一。私自身も達成感があり、日本ハムで10年プレーして、ひと区切りで新しいステージへというタイミングで巨人からオファーをいただいたのです。

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小笠原道大(おがさはら・みちひろ)/1973年10月25日、千葉県生まれ。暁星国際高からNTT関東を経て、1996年のドラフトで日本ハムから3位で指名され入団。99年に「バントをしない2番打者」としてレギュラーに定着。2002、03年には2年連続して首位打者に輝いた。06年には本塁打王、打点王の二冠に輝き、MVPを獲得。チームも日本一を達成した。同年オフにFAで巨人に移籍。巨人1年目の07年に打率.313、31本塁打、88打点の活躍で優勝に貢献。史上初めてリーグをまたいでの2年連続MVPに輝いた。13年オフに中日に移籍し、おもに代打として活躍。15年に現役を引退した。引退後は中日二軍監督、日本ハムのヘッド兼打撃コーチ、巨人二軍コーチ、三軍コーチを歴任。23年オフに巨人を退任し、現在は解説者として活躍中

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