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元巨人の名手・河埜和正が今も悔やむ阪神戦の「世紀の落球」→「バックスクリーン3連発」 ...「自分は守備で一軍に上がった人間だけに」 (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi
  • photo by Sankei Visual

── 83年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは西武と球史に残る死闘を演じました。

河埜 第1戦で松沼博久から本塁打を打ちました。あのシリーズはどっちに流れがいくかわからないなか、第7戦までもつれ込んだ。まさに死闘でしたが、紙一重の差で敗れてしまいました。勝つチャンスがあっただけに悔しかったですね。

── 84年には王貞治氏が監督に就任しました。

河埜 王さんにはすごく気を遣っていただいたのですが、思うような活躍ができず、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。私としては、東京ドームが完成する88年までプレーしたかったのですが、86年を最後に現役に幕を閉じました。

── 17年間の現役生活で、一番印象に残っていることは何ですか。

河埜 85年4月16日、甲子園での阪神戦の落球です。センターのウォーレン・クロマティが少しうしろに守っていたのですが、佐野仙好の飛球を深追いしてしまって......それで夜露に足をとられて落球し、逆転負けのきっかけをつくってしまった。前日にナイター練習をしていたのに、中間飛球は外野に任せればいいのに、守備範囲が広いと自負していたのに......後悔ばかりでした。そして翌日にあの"バックスクリーン3連発(ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布")です。私は守備で一軍に上がった人間だけに、覚えているのはそういうことですね。

── 巨人では坂本勇人選手に更新されるまで、「遊撃手での1370試合出場」は球団記録でした。ファンには、超強肩、"V9"と"巨人新時代"をつないだ名バイプレーヤーとしての姿が目に焼きついています。

河埜 ありがとうございます。先程も言いましたが、本当にいい時代にプレーできたと思いますし、17年の現役生活は誇りにしたいですね。

おわり


河埜和正(こうの・かずまさ)/1951年11月7日、愛媛県生まれ。69年、八幡浜工高からドラフト6位で巨人に入団。強肩・巧打の遊撃手として活躍し、74年にダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)、77年にベストナインを獲得した。86年のシーズンを最後に現役引退。その後は、巨人のコーチ、スカウトを歴任し、巨人が運営する「ジャイアンツ・ベースボールアカデミー」の校長も務めた

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