石毛宏典が考える、渡辺久信が西武の監督1年目しか優勝できなかった理由 「自主性」がもたらしたプラスとマイナス
石毛宏典が語る黄金時代の西武(8)
渡辺久信 後編
(前編:西武と近鉄の「伝説のダブルヘッダー」で渡辺久信がブラインアントに被弾「ナベちゃんは責められない」>>)
最多勝を3度獲得するなど、黄金時代の西武の先発ピッチャー陣を長く支え続けた渡辺久信氏。石毛宏典氏が渡辺久信氏について語る後編では、西武の監督やGМとしての手腕について聞いた。
西武の監督時代、ホームランを打った中村剛也を迎える渡辺久信(右)この記事に関連する写真を見る
【中村剛也らを育てた立ち振る舞い】
――前編では渡辺さんの選手時代についてお聞きしましたが、西武の監督時代の渡辺さんをどう見ていましたか?
石毛宏典(以下:石毛) ナベちゃん(渡辺久信の愛称)は選手を見極める力があって、何人かの選手をうまく育成しましたよね。顕著な例が中村剛也です。彼はプロ野球史上で初めて2000三振(2023年4月29日楽天戦)に達して、あらためて本物のスラッガーとしての勲章を手にした形になりましたが、育成方針がよかったと思います。
――具体的にどんな育て方がよかったんでしょうか。
石毛 ナベちゃんが監督になった時、「あれだけ遠くに飛ばすバッターは稀だ」ということで、打率なんかはどうでもいいと。中村本人は、「一軍に残るためにはある程度の打率を残さないといけない」という意識があったようですが、ナベちゃんが「俺はお前を使いきるから、小さくまとまるな。三振してもいいからホームランを打て」と檄を飛ばしたんです。
監督のナベちゃんからそう言ってもらえたんだから、中村も気持ちがずいぶんとラクになったでしょうね。ナベちゃんも「新しい4番を作ろう」と、腹をくくっていたんじゃないかな。
――渡辺さんは現役の最後は台湾でプレーし、その流れで台湾でコーチ業に従事。その後に西武の二軍監督を務め、満を持して一軍の監督に就任しました。指導者経験を積んできたことが、就任1年目から活かされていた?
石毛 台湾でコーチをしている時は、練習で気が緩んだ態度の選手や、試合で弱気なプレーをした選手に対して厳しく指導していたようですね。広岡達朗監督や森祇晶監督のもとでプレーして、「強いチームとはどうあるべきか」を肌で感じていたことも大きかったと思います。
あと、ナベちゃんは選手時代からそうでしたが、あまり「こだわるタイプ」ではありません。さっぱりしているので、勝っても負けても後日に引きずらなかったんじゃないかと。それは「軽い」わけではなくて、監督がそういった立ち振る舞いをすると、選手に変なプレッシャーがかからないんじゃないかと思います。
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著者プロフィール
浜田哲男 (はまだ・てつお)
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。