2005年阪神VS中日の伝説の天王山。岡田彰布は判定に激怒、サヨナラ負けのピンチで投手に「むちゃくちゃしたれ」 (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • Photo by Sankei Visual

――岡田さんの喝によってチーム全体の士気が高まり、その後の優勝に向けたラストスパートにもつながっていった?

関本 そうですね。その試合後、当時の中日の落合博満監督が「監督の差で負けた」とコメントを残されたそうですが、監督同士の駆け引きも含めて壮絶な試合だったと思います。あの試合に勝ったことで、阪神が優勝を手繰り寄せることができたのは間違いありません。

――指揮官がそういう姿勢を見せてくれるとチームが結束しますね。

関本 そもそも選手たちは「岡田さんの采配を忠実に遂行できれば優勝できる」と思っていました。余計なことはしないで、「打て」と言われたらヒット打つし、「バント」と言われたらバントを決める。選手が必要以上に本能や勘のようなものを働かせてプレーすることはなかったです。

――シンプルですね。

関本 その分、選手たちは采配を遂行するための技量を高めなければいけません。先ほど話したように、岡田さんの野球はディフェンシブな野球なので、特に接戦をモノにできる守備力を求められました。

 あと、僕は2番を打つことが多かったのですが、2番バッターにはバントや(右バッターの場合は)右打ちなどで走者を進めること、ピッチャーに球数を多く投げさせて、クリーンナップにいい条件で打ってもらうといった役割があります。そういう"つなぎ"の仕事をしっかり遂行できるように、室内練習場では球数を多く投げさせるためのカットの練習などもよくしていました。

――関本さんにとって、岡田監督との出会いは重要でしたか?

関本 間違いなくターニングポイントです。高卒でプロ入りして2年目の1998年に岡田さんがコーチとして阪神に復帰(二軍助監督兼打撃コーチに就任)されて、プロ野球選手としてのイロハや、プロとしての試合運びなどを教わりました。あのタイミングで、のちに一軍の監督になられる岡田さんの指導を受けられたことは、自分の野球人生にとってものすごく大きかったです。

(連載10:巨人のドラ1指名を喜べなかった篠塚が「ミスターに恥をかかせちゃいけない」と思った瞬間>>)

【プロフィール】
関本賢太郎(せきもと・けんたろう)

1978年8月26日生まれ、奈良県出身。天理高校3年時に夏の甲子園大会に出場。1996年のドラフト2位で阪神タイガースに指名され、4年目の2000年に1軍初出場。2004年には2番打者として定着し、打率.316の高打率を記録した。2007年には804連続守備機会無失策のセ・リーグ新記録を樹立。2010年以降は勝負強さを買われ代打の神様として勝負所で起用される。2015年限りで現役を引退後、解説者などで活躍している。通算1272試合に出場、807安打、48本塁打、312打点。

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