タコ足の名手、ファースト松原誠は「悪送球するなら低めにしてくれ!」 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 その点、松原さんも本職からの転向だった、埼玉・飯能高時代は強肩強打の大型捕手だったが、大洋入団2年目の1963年、当時の監督・三原脩(元・巨人)から打力を生かすべく転向を命じられた。

 この経緯自体はよくあることなのだが、松原さんが違ったのは、一塁守備を極めようと努めたことだ。特に、野手からの送球を受ける際に両脚をペタリと地面につける"大股開き"は、アウトの確率を高めると同時に売り物になった。その名手の目に、今の一塁手はどう映っているのだろう。

 ただ、名手でありながら、松原さんはゴールデン・グラブ賞(72年〜85年はダイヤモンドグラブ賞)を獲得していない。なぜなら当時、セ・リーグの一塁手部門は巨人・王貞治の牙城。賞が創設された72年から現役を引退する80年まで、9年連続で王が獲り続けた。松原さんはプロ20年目、巨人に移籍した81年限りで引退しているから、どんな思いで王を見ていたのか。

 しかも、松原さんは通算2095安打、331本塁打、1180打点を記録した強打者なのに、打撃部門のタイトルを一度も獲っていない。74年と78年にリーグ最多安打を記録したものの、表彰対象となったのは94年からで、一塁手のベストナインも王の牙城だった。

 2000安打を達成した選手のうち、記録のタイトルも、記者投票による表彰もないのは松原さんだけ、という事実を僕はこれまで知らずにいた。知らなかったぶん、その野球人生に興味を持たずにいられなかった。

 神奈川・横浜市にあるJR根岸線の駅からバスに乗って約10分。約束の10時前に指定された停留所に着くと、松原さん自ら車で迎えに来てくれていた。高台の住宅地にあるご自宅に到着すると、リモコンで車庫の扉を開けながら言った。

「この家は25歳のときから住んでるんです。僕は6人きょうだいの末っ子で、ちっちゃい頃に父親が亡くなってまして、家が貧しくて」

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