阪急の練習生だった松永浩美が、キャンプで場外弾を17連発。上田利治監督は「また、いったぞ!」と驚いた (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Sankei Visual

――他に印象に残っていることはありますか?

松永 すごいと思ったのは、ホームの西宮球場で試合をする時に、絶対にベンチに座らずに立っていたことです。逆にビジターでの試合の時は座るんですよ。その理由を聞いたことがあるんですが、本拠地での試合は相手チームを"迎えている"ので、自分が座るのは失礼だと。相手への敬意の表れだったんです。

――選手に対してはいかがでしたか? 松永さんは"マツ"と呼ばれていたようですが、最初からそういった距離感だったんでしょうか。

松永 最初の2年ぐらいは「アンタ」と呼ばれていましたよ(笑)。名前を知っているはずなのに、なんでアンタって呼ぶのか不思議だったんですが、ある先輩から「上田監督が名前で呼ぶ時は、ある程度認められた時だから。上田監督はそういう人だよ」と聞いて。「ああ、まだまだ自分は"ひよっこ"なんだな」と思いましたね。

――上田監督は熱血漢というイメージがある一方で、頭脳明晰な方でもありました。学生時代は成績がとても優秀で、弁護士を目指していた時期もあったようですね。

松永 そうですね。選手の技量や年齢によって意図的に会話を変えている感じはありました。私が一軍でデビューした頃の若い時は、怒るのではなく「失敗を恐れずに、お前らしくやれよ!」と、背中を押してくれるような声をかけてくれましたから。

 あと、上田さんは二軍の試合も必ず見に来るんです。一軍の監督が見に来る時は、当然ですがみんな張り切っていましたよ。私はプロ入り3年目の20歳の時に初めて一軍に呼ばれましたが、同時に同じ歳の石嶺和彦、関口朋幸も昇格したことを覚えています。

――松永さんは、練習生として入団した1年目のキャンプの時に、上田監督の方針で内野手に転向されたとのことですね。

松永 それまではピッチャーと外野手でした。私は練習生として入団したので、1年目のキャンプでは30分間バッティングピッチャーをやって、そこから自分のバッティング練習というのが基本的な流れでした。

 転向の話は、単純に内野手の若手が少なかったからだと思います。阪急は私が入団する数年前に、パ・リーグで初めて4連覇(1975年~1978年)をしましたが、その時はすでに内野手の平均年齢がちょっと高くなっていた。それで、「若手で誰かイキのいいやつはいないのか」という話になり、私に白羽の矢が立ったんです。

 上田さんから「内野手をやれ」って言われたらやるしかないですし、頑張れば使ってもらえる確率もチャンスも増えるだろうと思って気合いが入りました。コンバートされることに対して抵抗は全然ありませんでしたね。私は入団時から「5年経っても一軍に上がれなかったら野球をやめよう」と決めていたので、いろいろなことを受け入れやすかったのだと思います。

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