53年前、世界プロ野球リーグで戦った「謎の日本人チーム」の正体 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 ここまで聞いてきた話が一気につながった。自身と監督との確執が中日の強引な補強、すなわちプロ・アマの断絶を引き起こした柳川事件につながったと感じる森さんにとって、グローバル・リーグは「再生の場」だった。凝り固まっていた年表上の球史が、音を立てて氷解していくように感じた。

「まずね、最初は1チームなんだけど、将来は日本から2チームつくるという。東京と大阪でね。だからドラゴンズなんて名前は付けなかったんだけど、そうすると少なくとも50人の選手がだね、プロ辞めた選手しかり、これからという選手、あわよくば大リーグを目指したいという選手が、そこを踏み台にして挑戦できる。

 あるいは、本当に第三のメジャーとして発展したら、それはまたそれに越したことはないし。そういう意味もあってね、どうしてもあれは成功させたかったのね」

 グローバル・リーグにはアメリカ2チーム、ベネズエラ、プエルトリコ、ドミニカ共和国、日本の5ヵ国、6チームが参加。日本のハポン・デ・トキオは監督の森さんを筆頭に、投手10人、捕手2人、内野手6人、外野手6人。元プロ野球選手は16人で、それ以外は入団テストに合格した社会人、大学、高校野球出身者だった。

「出発するまでは大変だった。いろんな雑誌や新聞に"あぶれ者軍団"だとか書かれてね。〈監督は今までの不遇に飽き足らず、一旗揚げようと思って危険を承知で引き受けた〉とか、〈山師だ〉とか何とか。よくあれだけ勝手なこと書けるよな、と思ったよ。日本人の島国根性なのか、他人が成功を目指して新しいことを始めるのが悔しいんだね。それで失敗したら喜ぶ」

 69年3月31日。総勢25人のメンバーが、キャンプ地のフロリダ州デイトナビーチに向けて羽田空港から飛び立った。空港では家族や友人たちからの「バンザイ」の声に送られたそうだが、マスコミは最初から最後までグローバル・リーグを好意的に伝えなかった。解散になって帰国したときは、鬼の首を取ったようだったという。

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