馬原孝浩の引退理由の真実。体のケアのせいで「試合中に眠くなった」
人的補償の男たち(2)
馬原孝浩(ソフトバンク→オリックス) 後編 前編はこちら>>
「野球界には間接的に関わったほうが恩返しできるかもしれないと思った」
現在はトレーナーに転身し、MAHARAトレーナーアカデミーを開校して「本物」を育てるべく活動を行なっている元ソフトバンクの守護神・馬原孝浩。現役時代の2012年オフ、FAの人的補償という自身が意図しない形でのオリックスへの移籍を経験している。
オリックス移籍後の3年で33ホールドを挙げ、2015年に引退した馬原 ケガとの戦いとFA補償による移籍という経験を通して馬原は「トップ選手の経験と実績を持つトレーナー」の必要性を強く感じていた。
現役時代は度重なるケガに悩まされてきた馬原だったが、実はその予兆を明確に感じた試合があった。2007年9月24日の日本ハム戦のことである。
当時は投手分業制の概念こそあれど、抑えの投手は1回限定ではなく、延長に入れば回またぎすることも多々あったという。その日も馬原は、9回から12回まで4回をひとりで投げ切っている。
「その試合の4イニングス目ぐらいからちょっと肩がおかしくなって、自分の思っているボールが全然投げられなくなりました。それが自分の中でターニングポイントでしたね。少なくとも、気持ちよく空振りとファールを打たせてフォークで終わらせて......という投球スタイルではなくなりました。
最初は『疲れもあるんだろうな』と思っていたんですけど、次の日になっても、何か体の芯の部分が固まってしまっているのが自分で分かりました。当時はそれがどの部分なのかトレーナーにもうまく言葉では伝えられず、結局その違和感が最後まで尾を引いたということです」
その違和感は、やがて明確な右肩の痛みにつながった。2008年は開幕前から長期離脱を余儀なくされ、一軍復帰は7月までずれ込むことになる。
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