野村克也と伊原春樹に決定的な亀裂。ある選手の盗塁失敗が原因だった (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

 西武の黄金時代を築き上げた首脳陣のひとりとして、伊原は数多くの日本シリーズに出場している。その中でも、野村の率いるヤクルトと戦った「1992年、1993年の日本シリーズには格別な思いがある」と語る。

「3勝3敗で迎えた1992年の第7戦。ずっと膠着状態が続きましたよね。ヤクルトは岡林(洋一)、うちはタケ(石井丈裕)が好投を続けていたでしょ。森さんも采配できなかったと思いますよ。『動かなかった』んじゃなく、『動けなかった』のが本当のところじゃないのかな。えっ、私? ベンチにいて、声を出そうにも声が出なかった覚えがあります。選手たちに声援を送ることもできない。そんなことは、あとにも先にも初めての経験でしたね」

 息詰まる死闘の結果、1992年は西武が日本一となり、翌1993年はヤクルトが雪辱を果たした。しかし、伊原と野村の関係は、そのあとも舞台を変えて続くことになる。

【監督とコーチ。わずか1年限りの阪神タイガース時代】

 1999年、野村は阪神の監督に就任する。大きな期待と共に始まったシーズンだったが、阪神は最下位に沈む。捲土重来(けんどちょうらい)を期した翌2000年、野村が声をかけたのは、1999年限りで西武のユニフォームを脱いだばかりの伊原だった。

「西武を辞めたあと、自宅でデータの整理をしていたときに、阪神から『野村監督に会ってほしい』と電話がありました。指定されたホテルに行くと野村さんが待っていて、『お前は西武ではどういう仕事をしていたんだ?』と尋ねられたんです。当時の私は守備、走塁の作戦面のすべてを任されていましたから、そう伝えると『じゃあ、オレもそうするから』と、コーチ就任の依頼を受けました」

 こうして、野村と伊原は同じユニフォームを着てセ・リーグ制覇を目指すことになった。しかし、この関係は長続きしなかった。シーズン途中に両者の関係は破綻をきたし、その年のオフ、伊原はわずか1年で阪神を退団している。

「春のキャンプで初めて、野村さんのミーティングを聞きました。マスコミを通じて報道されている"ボヤキのノムさん"のイメージとは裏腹に、人間教育に主眼を置いた話を聞いて、『なかなかいいこと言うな』と思っていました」

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