一杯のカレーが運命の始まり。群馬の中学生は「根本陸夫の右腕」になった (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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 プロでは主力ではなかった根本が、選手として最も輝いた時期。46年秋のリーグ戦では30打数12安打、4割の打率を残して首位打者を獲得する。捕手としては鉄砲肩で鳴らし、のちに阪神に入団する田宮謙次郎ともバッテリーを組み、攻守に活躍していた。

 ところが、翌47年、根本は戦後の混乱期らしいトラブルに巻き込まれる。一時、立教大に入っていたことが判明し、連盟から出場停止処分を受けた。実際に入部したのか、練習に参加した程度だったのか、定かではないが、この処分が法政大への移籍につながることになる。

 出場停止中の48年、根本は母校・日大三高から要請され野球部の監督に就任。同校の『70年史』に<根本監督の200本ノックの苦しみは今でも強烈に残っている>との記述もあるほど、熱心に指導したようだ。だが、在任期間は1年限りとなった。

 というのも、法政大監督に就任していた藤田が、根本を引き取ったからである。折しも主力捕手が卒業し、後釜を誰にするか悩んでいた時。エースになっていた関根とすれば、中学でバッテリーを組んだ根本に救われる形となった。

 そうして49年から法政大でプレーした時、日大三高監督時代のブランクがあるため、根本は3年生。関根は4年生で、卒業後の翌50年、今度は藤田が初代監督になった近鉄に入団。その後、再び藤田に呼ばれる形で根本も近鉄入りするのだが、その経緯は後述するとして、浦田の話に戻る。神宮球場で初対面となった根本に、どんな印象を持ったのだろうか。

「練習中で、根本さんはユニフォームのまま出てきて、『おおっ、よう来たな!』と。もう最初から親しい間柄のように会話してくれたんです。それで『おまえら、まだ昼メシ食ってないだろ?』って言って、球場の食堂に連れていってくれた。そしたらカレーライスが出てきて。戦後間もない頃、カレーなんて御馳走中の御馳走でしたから。それは美味しかったですよ」

 先生からの口添えがあり、自分から手紙を出しているにしても、想像を絶する歓待ぶりに浦田は驚いた。まして、「食べ終わった頃に迎えに来るから。スタンドに案内する」とまで言われ、なぜ、この人はここまで面倒を見てくれるのだろうと思っていた。

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