高木守道はバックトスを叱られ
「頭にきてね、ますますやりましたよ」
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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第8回 高木守道・前編 (第1回から読む>>)
平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。いまや元号が令和となり、昭和は遠い過去になろうとしている。個性あふれる「昭和プロ野球人」の過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。
第8回は、さる1月17日に急逝した"ミスタードラゴンズ"高木守道さんを取り上げたい。前・後編に分けて再録するその言葉からは、いぶし銀とも評された名二塁手の内に秘められた熱さが伝わってくる。
1962年、まだ背番号41だった頃の高木守道(左)。右は板東英二(写真=共同通信)
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高木守道さんに会いに行ったのは2008年8月。きっかけはその1年前の、夏の甲子園だった。センターに抜けそうなゴロをセカンドがバックハンドで捕って、走り寄ってきたショートへそのままグラブトスすると、ショートがファーストへ送球してアウト──。
プロ野球でも滅多に見られない、この二遊間のコンビネーションプレーを常葉学園菊川高(静岡)、さらに帝京高(東東京)の高校球児がやってのけた。
それは"アライバ"こと中日の荒木雅博と井端弘和が魅せるプレーを彷彿とさせ、大いに感心したのだが、2ヵ月後、10月19日に行なわれた巨人対中日のクライマックスシリーズ第2戦。2回裏、木佐貫洋がセンター方向に打ち返したゴロが、"アライバ"のそのプレーでアウトにされた。荒木のグラブからフッと飛び出たボールを井端が素手で受けた瞬間、背筋がぞわっとして思わず声が出た。そのとき、両選手にとっては大先輩の高木守道という名前が頭に浮かんだ。
中日ひと筋21年間で通算2274安打、369盗塁。俊足好打の名二塁手として活躍した高木さんも、グラブトスを得意にしていた。「一枝修平とのコンビでよく決めていた」という話を他の取材で聞いたことがあった。
一方で、高木さんは[バックトスの名手]として知られる。併殺時にゴロを捕ったあと、体勢を切り返さずに逆手で二塁へ送球するバックトス。今では珍しくないワザだが、高木さんが習得した時代、昭和40年前後の日本球界では他に類を見なかったという。
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