FA宣言第1号の松永浩美が語る「球界の寝業師」根本陸夫との点と線 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Kyodo News

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 広島で初めて監督を務めた当時から、根本はキャッチボールを重視していた。通常、キャンプの練習メニューでも20分程度のキャッチボールに、1時間を費やす。ひじが肩の高さまで上がるのが「いい投げ方」として、正しいフォームをつくることが目的だった。現場ではその説明がないために戸惑うコーチもいて賛否両論あったが、松永は根本の指導方針に賛同していた。

 となると、この邂逅は運命的なものだったのか。何しろ春季キャンプから9カ月後、根本の冗談は現実のものとなる。松永は同年から導入されたFA制度を活用し、FA宣言第1号となってダイエーに移籍するのだ。宣言残留の道もあったなか、わずか1年で阪神を去ったのはなぜか。そこに根本はどう絡んでいたのか──。松永に聞く。

「まず初めに言っておきたいのは、FA制度は僕が提唱したものだった、ということ。きっかけはね、ドラフト1位指名を拒否する選手がいるのを見て、自分がいる世界を馬鹿にされたような気がしたからです。僕自身、高校を2年で辞めてドラフト外でプロに入ったので、『何で拒否するのか、そこまでプロ野球は夢がないのか』という気持ちになったんですよ」

 松永は福岡・小倉工高を中退して78年に阪急に入団。練習生から79年に支配下選手になると、3年目の81年に一軍初出場。翌82年には三塁のレギュラーを獲り、俊足強打のスイッチヒッターとして活躍し始める。85年に盗塁王に輝き、88年にはロッテ・高沢秀昭と首位打者を争った。最後はロッテの"敬遠作戦"でタイトルは逃すも、1厘差で打率リーグ2位となった。

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