2019.06.18

エース引き抜き、徹夜で連投…。
土橋正幸が語っていた昭和のプロ野球

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 58年は54試合登板で21勝を挙げ、59年には63試合登板で27勝。土橋さんは一躍、エースの座にのし上がっていた。翌60年には12勝23敗と、開幕前の調整がうまくいかなかった影響で大きく負け越したが、チームで二桁勝ったのも、200イニング以上を投げたのも土橋さんだけだった。

「球団は『12勝23敗だから年俸は10パーセントダウン』だって言う。『冗談じゃない。俺が1人で頑張ってんのに、何が10パーセントだ』と。それで契約しないでいたら、この辺の店で川上、藤田に呼ばれてさ、『巨人に来ねえか?』って誘われたんだよ」

 当時、川上哲治はコーチ、藤田元司は現役の投手。そういう立場で補強に動いていたのか、と驚かされる。実際、土橋さんがよく行っていた赤坂のナイトクラブに巨人関係者も来ていて、その店のママを介して川上、藤田との交渉が持たれたという。

「いろいろ条件面も言ってくれてね。『年俸は東映の倍だ』って言う。それはわたしだってプロだもの、心が動きますよ。ただ、ママは『監督さんと会ってくれない?』って言ってたのに、水原は来なかった。川上は『今日は、オヤジはほかの用事で来られない』って言ってたけど、実はもうその時点で、監督が川上に代わるのは決まってたと思うな」

 60年12月、「名将」と呼ばれた水原茂が巨人の監督を辞任し、東映の監督に就任した。一方で巨人の監督に昇格が決まっていた川上とすれば、土橋さんを獲得して投手陣を強化したかったのだろう。その年、巨人は新人の堀本律夫が29勝と大活躍するも、別所毅彦が引退し、藤田は右肩痛。実績ある柱が不在だった。

「年が明けて、わたしがまだ東映と契約しないでいたら、水原から『巨人の話は哲に断った。俺は東映で契約のお金まで口を出せる立場になった。だから減俸はしない。おまえのほしいだけもらってやるよ』って言われて、それでやっと契約したんですよ」