斉藤和巳が燃え尽きた試合。
絶望へと繋がる稲葉篤紀に投じたあの一球 (4ページ目)
【「負けないエース」が燃え尽きた】
北海道移転後初めての優勝に沸くファイターズの選手、ファンの歓声も、斉藤の耳には届かなかった。記憶は途切れ途切れにしか残っていない。
斉藤が振り返る。
「マウンドから見えた景色、ベンチ裏まで連れていってもらったことなどは覚えています。誰かに肩を叩かれたけど、自分の力では立ち上がれなかった。そのまま、ベンチ裏でずっと泣いていました。ロッカーまでどうやって歩いていったかはわからないけど、お通夜みたいに静まり返っていて、その空気に触れた瞬間にものすごい責任を感じました。『オレのせいで......』と」
胸にあったのは、チームメイトに対して申し訳ないという思いだけだった。チームメイトの気持ち、療養中の王監督への思いを背負ってマウンドに上がった斉藤の戦いは終わった。
斉藤はその後、チームとは別行動を取った。自分で航空券を手配し、福岡ではなく、ひとりで東京に向かった。何もする気にならず、何もすることができず、しばらく部屋に引きこもった。絶望感を抱いたままで。
気持ちを切り替えることなどできなかった。斉藤の時計はここで止まってしまった。
2003年に20勝を挙げてエースになり、2004年に10勝、2005年に16勝、2006年に18勝を積み上げた斉藤の肩はもう限界にきていた。
2007年は登板間隔を空けながら6勝を挙げ、マリーンズとのCSにも登板した。しかし、10月8日のピッチングを最後に一軍から消えた。その後に2度右肩を手術し、長くリハビリを行なったものの、二度とマウンドに上がることはなかった。
2003年からの4年間で64勝16敗を上げた斉藤の勝率は8割。しかし、リーグ優勝できたのは2003年だけだった。「負けないエース」はホークスを勝たせることはできなかった。
小久保は言う。
「『野球選手は、活躍できなくなってやめるか、体が壊れてやめるかだ』。これは根本陸夫さんに言われた言葉ですが、この意見に僕は賛成です。体が元気で、どこも痛くなくても、戦力外を通告されることもある。だったら、壊れるまで投げるというのは幸せなのかもしれない。
和巳は、投げられなくなるまで投げた。そういう意味では、幸せだったかもしれませんね。だからこそ、いまでも彼のことがクローズアップされるのでしょう」
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