飯田哲也に捕殺を許した笘篠誠治が、今でも思い出す「痛恨のミス」 (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

今でも、「あの日の、あのプレー」を思い出す

――あらためて、激戦となった1992年、1993年日本シリーズを総括していただけますか?

笘篠 最初に思うのは、弟(笘篠賢治)と一緒に日本シリーズに出られたというのが、一番うれしいことですね。両親もとても喜んでいました。1992年は僕と弟、両方の応援をしていたようです。でも僕は1993年に、両親に「オレは去年、もう勝っているから、今年は弟を応援してやってくれ」って言ったんです。その本心としては、「たとえ両親が弟の応援をしたとしても、どうせ西武が勝つだろう」と思っていたからです(笑)。

――前回の話にも出ましたが、笘篠さんご自身が「西武の強さ」に対して、揺るぎない自信を持っていたんですね。

笘篠 そうですね。「西武は強い」と心から信じていましたから。結果的に1993年はヤクルトが日本一になったけど、それでも「西武は強い」と僕は思っていましたね。それに、このシリーズを通じて「やっぱり野球はピッチャーだ」とも思いました。いいピッチャーが出てくれば、そう簡単に打たれない。それをつくづく感じましたね。1992年は岡林(洋一)、そして1993年は(川崎)憲次郎のボールはすごかったですからね。

――この2年間のシリーズは、後の笘篠さんの野球人生にどんな影響を与えましたか?

笘篠 勉強になったのは、やっぱりあのスライディングですね。「こういうことは二度とやってはいけない」と教訓になりました。「一歩の遅れが、とんでもない結果になってしまう」ということを学びました。だから、その後はもっと走塁練習に励んだし、そのおかげで、今こうして各球団で、守備走塁コーチとしてやらせてもらっているんだと思いますね。

――結果としてアウトになったけれども、笘篠さんの走塁も、飯田さんの返球も、古田さんのブロックも、みんなプロのすごみを感じさせてくれる忘れられないプレーとなりました。

笘篠 僕もそう思います。だから、スタートが遅れるというミスを犯したけれども、僕は全然恥じてはいないです。ただ、今でもときどきこの日のプレーを思い出すんです。僕は今、(楽天で)サードコーチャーを任されていますけど、試合をしていて、選手たちのスタートが少し遅れることがあるんです。そういうときに、僕はあの日の自分を思い出すんです。あの日のことが脳裏によみがえってくるんです。

――笘篠さんにとっては、「忘れられないプレー」となったんですね。

笘篠 今もこうして、あの日のことを聞かれたり、あの場面をテレビで目にしたりすることもあります。アウトになったけれども、それはうれしいことですよ。若い選手たちに、「笘篠さん、映ってましたね」なんて言われることもありますから。先ほど、「全然、恥じてはいない」と言ったけど、それでもやっぱり、いまだにいろいろなことを思い出すし、いろいろなことを考えさせてくれるプレーとなったのは、まぎれもない事実ですね。

3 / 3

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る