阪神2位指名もブレずに拒否。日本の四番に野球一筋の選択はなかった

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Kyodo News

 かつてNHKの高校野球解説者として人気を集め、昨夏までは強豪・秀岳館高校(熊本)で3大会連続の甲子園ベスト4進出を果たした高校野球監督。鍛治舎巧(かじしゃ・たくみ)が阪神タイガースのドラフト指名を蹴っていたという事実をどれだけの人が知っているだろうか。

日本の四番はなぜプロ野球を選ばなかったのか


秀岳館高校を4季連続で甲子園に導いた鍛治舎巧秀岳館高校を4季連続で甲子園に導いた鍛治舎巧 県立岐阜商業(岐阜)から早稲田大学、松下電器産業(現・パナソニック)と進んだ"野球エリート"は、なぜプロ野球を選ばなかったのか。

 今から43年前の1975年ドラフト会議で、阪神タイガースの吉田義男監督が2位で指名したのが、松下電器の鍛治舎巧だった。県立岐阜商業時代に甲子園に出場、早稲田大学で1年生の春からベンチ入りを果たすなど、4年通算で打率3割1分1厘、6本塁打、60打点を記録。ベストナインに2度選ばれている。1973年春のリーグ戦で優勝した後には、日米大学野球の代表メンバーに選出されて四番を任された。

「早稲田大学の4年のとき、プロに行くかどうかで迷いました。広島東洋カープ、近鉄バファローズ、太平洋クラブライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)から『1位で』というお話をいただきました。のちに西武になる太平洋は、『作新学院の江川(卓)じゃなくて鍛治舎くんを』と言ってくれて、ポジションまで空けておくと。チームの基礎を固めるために東京六大学の選手を獲りたいということで、魅力的なお誘いでした」

 しかし、鍛治舎はプロ入りを決断しなかった。

「プロに行くかどうか迷ったら、通用しないですよ。よほどの覚悟がないと。大学時代の私は、ずっと迷っていましたから。プロに行かないという決断をしたのは、ドラフト会議より前です。大学4年の夏に『プロに行かない』という話をしたら新聞に記事が出て、25の企業から勧誘がきました。45年前のことですが、お誘いいただいたのはほとんどが一部上場企業でしたね」

「一度しかない人生、このままずっと野球だけでいいのか」と考えていた鍛治舎が選んだのは、松下電器だった。教職課程を履修していたこともあり、金沢の高校から「教員にならないか」という誘いもあった。プロ野球、企業、高校という選択肢が目の前にあった中で、多くの可能性を秘めた22歳の青年は松下電器に進み、社会人野球の選手としての道を選んだ。

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