追悼・上田利治──。現役わずか3年も、情熱で歩んだ「名将ロード」 (6ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 その後、数球団から誘いを受けたが、1981年に阪急に復帰。黄金期を支えた主力の力が衰えるなか、1984年は松永浩美、藤田浩雅、弓岡敬二郎、山沖之彦ら、"上田色"の強い選手たちの活躍でリーグ優勝。広島に敗れ日本一はならなかったが、黄金期の勝利とはまた違った喜びを味わった。

 この頃から、若手を褒め、乗せていく姿に「ええで」というコメントがよく使われるようになった。ところが本人は意外な真実を口にした。

「関西弁で『ええで』といったら、『もうええで』。つまり『もういらない』という意味になる。そんな言葉を、選手を語るときに使わない。関西弁をよくわかっていない記者が書き始めて、それが広がったんです」

 その後、1988年の阪急の身売りを経て、オリックスの監督を2年間引き継ぎ、1995年からは日本ハムの監督として5年間指揮を執った。

 上田の経歴をあらためて見直すと、「もし......」と思うことがある。オリックスの監督を終えた上田は、1991年の1年間だけフロント業を務めた。実はその年のドラフトでオリックスが4位で指名したのがイチローだった。もし、あと少しオリックスの監督を続けていたらどうなっていたのだろうという想像だ。

 入団1年目からファームで首位打者に輝いた希代のヒットメーカーは、上田の目にどう映ったのか。おそらく、一軍での活躍はもっと早まっていたのではないだろうか。また、その後、スター選手となっていくイチローを、上田ならどう扱ったのかという興味もある。

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