追悼・上田利治──。現役わずか3年も、情熱で歩んだ「名将ロード」 (5ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 それにしても、選手としての実績もなく、36歳で常勝チームを託された重圧は相当なものだっただろう。そのときの状況を上田はこう語っていた。

「割り切って勝つことだけを考えました。まあ、そう思うまでにちょっと時間はかかりましたけど......」

 監督1年目の1974年は、前期を制したもののプレーオフでロッテに敗れた。だが翌年、球団創設40年目にして初の日本一に輝くと、そこから日本シリーズ3連覇を達成するなど、黄金期を築いた。

 山口高志という剛腕の加入が、それまで届かなかった頂へと押し上げたのは間違いない。ただ、その一方で、山田久志、福本豊、加藤秀司を筆頭とした主力の大半は、西本が手塩にかけて育てた選手たちだった。上田の功績を称える一方で、「西本の遺産」という声はついて回った。このことを上田はどう感じていたのか。

「チームというのは、毎年育ってきとるからね。種を蒔いて育てる人もいれば、刈り取る人もいる。ただ、阪急の監督を引き受けたときは、『2代目はよく失敗する』と言うけど、それだけは許されんという気持ちがありました。引き継いだから強かったというより、引き継いだから負けたと言われんように......それだけでしたね」

 上田は自らを"刈り取る人"とたとえたが、監督になってからは12球団一と言われた練習で選手を鍛え上げ、試合では勝ちにこだわった。「V4確実」と思われていた1978年の日本シリーズでヤクルトに敗れ、第7戦では本塁打の判定を巡り1時間19分の猛抗議。この責任を取る形でユニフォームを脱いだ。

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