3A時代の盟友もうらやむ、大家友和の「流浪だけど幸せな野球人生」 (2ページ目)

  • 阿佐智●文 text by Asa Satoshi
  • photo by Getty Images

 球団の期待通り、大家はルーキーイヤーに15試合登板し、初勝利も挙げている。しかし、その後、日本を離れるまで大家が勝利投手になることはなかった。

 1997年、一度も一軍のマウンドに立つことがなかった大家は、フロリダで行なわれていた教育リーグに参加し、ここで自分の居場所を見つける。帰国後、メジャー挑戦の意思を球団に伝えた大家は、翌シーズン、二軍で最優秀防御率のタイトルを獲り、横浜を離れた。

 1999年、2Aからマイナーのキャリアをスタートさせた大家は、連勝を重ね、3Aを経て7月にはメジャー初登板を果たし、10月には初勝利を飾るなど、才能を開花させた。

 そして2001年半ばにモントリオール・エクスポズに移籍すると、2002年から2年連続2ケタ勝利を飾るなどローテーションの軸として活躍。以後、ミルウォーキー・ブリュワーズ、トロント・ブルージェイズ、クリーブランド・インディアンスと、実に10シーズンにわたってメジャーのマウンドに立ち続けた。

 メジャーで積み上げた勝利数「51」は、野茂英雄の123、黒田博樹の79、岩隈久志の63、松坂大輔の56、ダルビッシュ有の52に次ぐ日本人6位の数字である。
※成績は2017年6月22日現在

 メジャー球団と契約できなかった2010年は、メキシカンリーグに活路を求めるが、登板機会がないまま開幕直後にリリースされてしまう。

 この後、横浜に復帰し、このシーズンは7勝を挙げるも、翌年0勝に終わると、自由契約を言い渡された。このとき35歳。速球にも衰えが見られ、傍目には「このまま引退か」と思われたが、大家のなかにそのような考えはまったくなかった。

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