【プロ野球】高津臣吾「野村監督、古田さんがいなかったら、今の自分はない」

  • 大田誠(テレビ朝日 Get SPORTS取材班)●文 text by Ohta Makoto(tv asahi Get SPORTS crew)
  • 日刊スポーツ●写真 photo by Nikkansports

ヤクルトでは5度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した高津臣吾ヤクルトでは5度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した高津臣吾高津臣吾インタビュー(1)

 2012年9月22日、新潟県長岡市悠久山野球場。日本、アメリカ、韓国、台湾と世界を渡り歩き、プロ通算363セーブを積み重ねた偉大なるストッパー、高津臣吾が22年間の現役生活に幕を下ろした。あれから2カ月、高津が波乱万丈の野球人生を振り返った。

「辛かったですね。なんか、ずっと歯をくいしばっていたような気がします。それは、プロでの22年間だけでなく、小学校3年から野球を始めて、そこからずっとしんどい思いをしながら、泣きながら野球を続けてきたような気がします。よく頑張ったなと思います」

 高校、大学時代、高津の前には常に『エース』という高い壁が立ちはだかった。県立広島工業高校では、3年生の時に春夏連続で甲子園に出場するも、マウンドに上がることは一度もなかった。進学した亜細亜大でも、後にドラフトで8球団が競合する絶対的エース・小池秀郎(近鉄、中日、楽天で活躍し、06年アマ球界に復帰)の陰に隠れた存在だった。だからこそ高津は、『2番手投手』という苦しい状況を生き抜く独自の術を見出していた。

「ちょっと方向は違うかもしれないですけど、先輩に怒られたくないからとか、走らされたくないからとか、そういうところからスタートするんですよね。2番手ピッチャーとして、どうやって生き抜いていくかとなった時に、『こうした方がいいんじゃないの』とか、『こういう存在でいなきゃいけないんじゃないの』とか、常に疑問を持つことからはじめて、どうしたらチームにマッチするんだろうと考えていましたね」

 そんな『2番手投手』が、ドラフト会議で小池の交渉権を逃したヤクルトから指名を受けるという、紙一重の運命でプロ野球の世界に足を踏み入れる。しかもその場所には、高津の野球人生を大きく変える運命の出会いが待っていた。

「僕のプロ野球人生は、ふたり抜きでは語れないと思います。プロに入ってこのふたりがいなかったら、僕はどうなっていたのだろうと思うことがあります。反対に、そのふたりに出会えていないピッチャーもたくさんいるわけで、そういう人ってかわいそうだなと思いました。そのふたりに出会っていたら、もっといい成績を残せたピッチャーは必ずたくさんいたと思います」

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