【MLB日本人選手列伝】野茂英雄:すべての障壁を打ち破り確かな足跡を刻み込んだ「トルネード」 (2ページ目)
【「頼りになる男」を証明した4度の200イニングシーズン】
最後に野茂のユニフォーム姿を見たのは、2008年のスプリングトレーニングでカンザスシティ・ロイヤルズに移籍した時だった。手術から復帰して契約を勝ち取ったが、最後まで野茂は投手としてあがいた。引退に際しては会見を行なわず、
「引退する時に悔いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は悔いが残る」
と関係者に話したという。
振り返ってみると、野茂がメジャーリーグで成功できたのは、スプリットという三振を取れる球種を持っていたこと(1995年と2001年の2度、奪三振王)、そして"頑丈"だったことが要因だったと思う。
メジャーリーグの先発投手で「頼りになる男」とされるのは、シーズン200イニング以上を投げられる投手だ。出来高で評価されるのは勝ち星ではなく、イニング数だ。
野茂は1996年、1997年、2002年、2003年と4シーズンで200イニングを超え、1995年、2001年、2002年は190イニング以上を投げている。
ほかの日本人投手では、黒田博樹が3度、岩隈久志、松坂大輔、ダルビッシュ有(現サンディエゴ・パドレス)がそれぞれ1度ということを考えると、野茂のシーズンを通してのタフさが際立つ。現在、日本国内では中6日のローテーションを守れない投手がいることを考えると、野茂に学ぶことは多いのではないか。
野茂が引退後、ラジオ番組で一度だけインタビューをしたことがある。アメリカへの移籍についての話になり、私が、「高校を出てから、日本のプロ野球で経験を積んでからアメリカに行ったほうが、近道だったりするんでしょうか?」と質問をしたところ、野茂は即座に、
「早く行ったほうがいいですよ。そのほうがいいです」
と答えた。
「日本球界は、もっと規制緩和をしてほしいと思っています」
とも語ったが、そうした話をすることに飽きていたかもしれない。1990年代から、野茂は一貫して、行動で示していたのだから。
そしていま、日本の高校からアメリカの大学へと進み、メジャーリーグのドラフトに指名される選手も出現し、日本国内だけではなく、複数の「世界線」が野球界には浮かび上がりつつある。
オールスター初先発の日から、30年。野茂が開いた扉から、さまざまな道が拓かれている。
野茂英雄は正真正銘のパイオニアだった。
【Profile】のも・ひでお/1968年8月31日生まれ、大阪府出身。成城工業高(大阪)―新日鉄堺。1989年NPBドラフト1位(近鉄)。1995年にロサンゼルス・ドジャースと契約。
●NPB所属歴(5年):近鉄(1990〜94)
●NPB通算成績:78勝46敗(139試合)/防御率3.15/投球回1051.1/奪三振1204
●MLB所属歴(11年):ドジャース(ナ/1995〜98途)―ニューヨーク・メッツ(ナ/98)―ミルウォーキー・ブルワーズ(ナ/99)―デトロイト・タイガース(ア/2000)―ボストン・レッドソックス(ア/01)―ドジャース(ナ/02〜04)―タンパベイ・レイズ(05)―カンザスシティ・ロイヤルズ(ア/08) *ナ=ナショナルリーグ、ア=アメリカンリーグ
●MLB通算成績:123勝109敗(323試合)/防御率4.24/投球回1976.1/1918奪三振
●MLBタイトル受賞&偉業歴: 最多奪三振2回(1995、2001)/新人王(1995)/オールスター出場1回(1995)/ノーヒットノーラン2回(1996、2001)
●主な日本代表歴:1988年ソウル五輪(2位)
著者プロフィール
生島 淳 (いくしま・じゅん)
スポーツジャーナリスト。1967年宮城県気仙沼市生まれ。早稲田大学卒業後、博報堂に入社。勤務しながら執筆を始め、1999年に独立。ラグビーW杯、五輪ともに7度の取材経験を誇る一方、歌舞伎、講談では神田伯山など、伝統芸能の原稿も手掛ける。最新刊に「箱根駅伝に魅せられて」(角川新書)。その他に「箱根駅伝ナイン・ストーリーズ」(文春文庫)、「エディー・ジョーンズとの対話 コーチングとは信じること」(文藝春秋)など。Xアカウント @meganedo
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