イチローの日米通算1本目を取材した記者が見た「超一流プロの流儀」 (3ページ目)

  • 小西慶三●文 text by Konishi Keizo
  • photo by Getty Images

「もうちょっと時間をかけて自分の形を作りたい。3年目まではそういうつもりだったんです。4年後に同い年の大卒が入ってくる。そいつらの一番よりも僕は絶対上手くなきゃいけないし、給料も絶対高くなきゃいけないって思っていた。だから1年目(の一軍昇格)は早過ぎるんですよ」

 プロ初安打――めでたいはずの節目でひとり冷徹に長期戦略を考えていた。プロ1本目を喫したピッチャーの「ただ者ではない」との直感は当たっていた。

「日本では大卒、社会人出身は即戦力でなきゃいけないみたいなところがある。だから一刻も早く(一軍で)というのは分かります。まあ、二軍にいる時間が短ければ短い方がいいというのは当たり前ですが、高校出はそうとも言い切れないですよ。やっぱり何かを蓄える時間って必要ではないですかね」

 イチローは、プロ1本目を打つ前から、より多くのヒットを打つことに執着していた。そんな1本目の舞台裏を筆者が知ったのは、それから10年以上も経ってからだった。

【1999年4月20日@東京ドーム】

 この日、日本ハム・金村暁が4打席目のイチローを抑えていれば、プロ野球史上初となる開幕から3試合連続完封はほぼ確実だった。0-10という一方的展開の9回、無死一塁で飛び出した右中間本塁打は金村の快挙を阻止しただけでなく、史上最速の1000安打達成記録(757試合。従来の記録はブーマー・ウェルズの781試合)も大きく塗り替えた。

 だが、そんなインパクト十分の1本にもイチローの素っ気なさは変わらなかった。

 メジャーリーグと違い、日本ではクラブハウスへのメディアの立ち入りが許されていない。そのため試合後の談話取材は選手がロッカーから出てきてからせいぜい数分の"ぶらさがり"で決まる。

 その頃のイチローが記者泣かせだったのはチームバスや車に乗り込むまでがおそろしく速いうえ、コメントそのものが少ないことだった。試合前、宿舎や自宅からの道中などでメディアと接触することもほとんどなく、担当記者たちは毎試合の原稿づくりに苦心していた。

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