田中将大は同じ道を辿れるか?偉大なる即戦力ルーキーの系譜 (2ページ目)

  • 福島良一●解説 analysis by Fukushima Yoshikazu photo by AFLO

 まず、真っ先に思い浮かべるピッチャーといえば、ロサンゼルス・ドジャースで一世を風靡したメキシコ出身のフェルナンド・バレンズエラでしょう。メキシカンリーグで投げているときにスカウトされたバレンズエラは、1979年にドジャースと契約。1980年9月にデビューを果たし、実質メジャー1年目となった1981年、全米中に大きな衝撃を与えたのです。1981年の開幕投手は当初、エースのジェリー・ロイス(1969年~1990年)が務める予定でした。しかし急きょ、ロイスが先発を回避したため、当時20歳のバレンズエラが開幕投手に指名されたのです。

 するといきなり、バレンズエラは開幕戦で完封勝利を演じ、その後、ルーキーとしてメジャー最長(当時)となる破竹の8連勝を記録。オールスターにも選ばれ、新人ながらナ・リーグの先発を務めました。1981年は夏に約2ヶ月間のストライキがあった変則シーズンにもかかわらず、終わってみれば13勝7敗・防御率2.48。得意のスクリューボールで奪三振王(180個)に輝き、さらにメジャー史上初となる「新人王&サイ・ヤング賞」のダブル受賞を成し遂げました。また、プレイオフでもバレンズエラの勢いは止まらず、ヤンキースと対戦したワールドシリーズでは第3戦で完投勝利。1977年、1978年と、ワールドシリーズで2度負けていた宿敵ヤンキースを破り、見事リベンジを果たしたのです。「ルーキー」バレンズエラの活躍がなければ、ドジャースは世界一になれなかったと思います。

 続いて紹介したいのは、1997年にフロリダ(現マイアミ)・マーリンズの世界一に貢献したリバン・ヘルナンデスです。キューバのナショナルチームで活躍し、将来のエース候補と呼ばれたリバン・ヘルナンデスは、1995年に亡命してマーリンズと契約しました。そして、1996年のシーズン終盤に1試合だけ登板し、翌1997年6月に再昇格すると、なんと9連勝をマークしたのです。

 レギュラーシーズンを9勝3敗・防御率3.18で終え、新人王投票で2位タイに食い込んだリバン・ヘルナンデスは、プレイオフでさらに大暴れしました。アトランタ・ブレーブスとのリーグチャンピオンシップでは第5戦に先発し、15奪三振をマークして完投勝利。相手エースのグレッグ・マダックスに投げ勝ち、リーグチャンピオンシップMVPに輝いたのです。さらに、クリーブランド・インディアンスとのワールドシリーズでも2勝(0敗)を挙げ、またもやMVPを獲得。史上最速となる球団創設5年目でのワールドチャンピオン誕生の歴史に、リバン・ヘルナンデスというルーキーの存在は欠かせないでしょう。

 そして翌年の1998年も、ルーキーの大ブレイクしたチームが頂点を極めました。この年の主役は、リバン・ヘルナンデスの義理の兄にあたるオーランド・ヘルナンデスです。義弟を追いかけるように亡命し、1998年3月にヤンキースと契約したオーランド・ヘルナンデスは、その3ヵ月後に早くもメジャーのマウンドに立つと、期待にたがわぬ活躍を見せました。レギュラーシーズンで12勝4敗・防御率3.13をマークし、ルーキーながら地区優勝に大きく貢献。そして、インディアンスとのリーグチャンピオンシップではドワイト・グッデンと投げ合い、7回無失点で勝利。さらに、サンディエゴ・パドレスとのワールドシリーズでも1勝を挙げ、ヤンキース世界一の立役者となりました。

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